「詩人とは( 第780回)」の中で述べた「あの道がこの道であることが私を苦しくさせる」という詩人、立原道造の言葉は、「思い出」というものの本質を見事に貫いている。
あの道にあって、この道にないものとは「あの時間」である。あの道にあったものとは過去となった「あの時間」であり、それは現在のこの道にはない。現在にあるものは現在にある「この時間」である。
道造のこころを苦しくさせているものとは「二度と再びあの時間にもどれない」という時間がもつ絶対的非可逆性に対する嘆きである。後悔は先には立たないのであり、覆水は決して盆にはもどらないのである。
ではあの道にあった物理的条件(天候や環境条件等)をこの道の物理的条件として完璧に再現した場合はどうであろう。違いはあの時とこの時という時間のみである。だがそれは意識としての時間であって、意識を消滅させれば「あの道」は「この道」と同じである。それがゆえに道造は救いの道を「忘却」に求めたのである。つまり、忘却とは意識を消滅させることに他ならない。だが感受性に優れた道造であってみれば、いくら忘却を求めたところで意識ある身をもってしては、それは不可能なことであったであろう。
物理学的な「時空間」とは時間と空間という2つの要素によって構成された宇宙である。しかして、Aという時空間と、Bという時空間の同一性は、この2つの要素の一致をもって保証されるのであるが、「時間の始まりと終わり」や「宇宙の果て(空間の果て)」という時間と空間にまつわる根源的な疑問に対する明確な解答をもっていない我々人間にしてみれば、あの時間とこの時間が同じであること、あの空間とこの空間が同じであることを、どのように保証できるのであろう。まして「時は流れず」と考えている私とすれば、あの道とこの道の違いは、時間の違いではなく、意識の違いと考えることに妥当性を覚える。
つまり、あの道にあったものとは「あの意識」であり、この道にあるものとは「この意識」なのである。私はこのような「意識のめぐり逢い」を名付けて「時空のめぐり逢い」と呼んでいる。
道造は苦しくはあったが、かくなる時空のめぐり逢いの中から、不思議に透明で、夢のように甘美な、純粋詩を紡ぎだし、時代を駆け抜けていったのである。「いつかどこかで」という「のちの思い」を画したつぶやきをのこして・・・。
時は流れず(相対性理論が意味するものとは)(第667回)
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