私は午前8時にこのバス停に到着するバスを待っている。
「午前8時という時間が、そのバス停にそのバスを出現させるのか・・?」
「そのバスがそのバス停に出現した時間が午前8時になるのか・・?」
そうではない
「そのバスは出現すべき状況下に、そのバス停に出現するのである」
同様に。
「私は午後7時に夕食を食べるのか・・?」
「食べた時に午後7時になるのか・・?」
そうではない
「食べるべき状況下に、食べるのである」
「私の父は75年間という時間を生きたのか・・?」
「生きた結果が75年間なのか・・?」
そうではない
「生きるべき状況下に、生きたのである」
このようにこれらの出来事から時間概念を消滅させると、出来事は来るべき状況下で、この「今の今」という刹那空間である現在世界に、あるべき姿で出現するように観える。
時間の呪縛から解放された意識とはそう意識するであろう。
刹那空間にはさまざまな意識が「かく来たりて、かく去っていく」、それらの意識がこの「今の今」という刹那空間で交錯し(意識の巡り逢い)、織りなし(意識物語の構成)、意識的な直観的場面を構築し、構築された直観的場面が物質的な歴史的場面を現在というスクリーンに投影し、実在場を構築する。
つまり、「私の父は死んだのではなく、父の意識が時空の彼方へ去った」のである。
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