撮影した自然風景を日付を記載しない限り、撮影した私をのぞいて、誰もその時系列を判定できないということはいかなることなのか。
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私の解答は 「自然そのものには時間は存在せず、人間の内にのみ時間が存在する」
というものである。 以下簡潔に説明すると、「過去は記憶」 で構成され、「未来は想像」 で構成される。 どちらもはなはだ曖昧模糊とした人間の
「主観的な意識作用」 である。 だが 「現在は運動」 という確固たる 「客観的な物理作用」 で構成されている。
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我々は線形時間の流れとして
「過去・現在・未来」 を配列し、時間は過去から未来に向かって流れていると考えている(思っている)が、現在はその構成において過去や未来とはまったく異なる。
それを同列に配置するのは人間の意識作用のなせる業であって、それ以外には何も根拠がない。
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つまり、時間は人間の主観的意識場においては、流れていることが保証されるが、現在のような客観的物質場においては、流れているのかどうかは保証されない。
私は過去や未来は線形に配列されるものではなく 「現在に含まれている」 のではないかと考えている。
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以上から考えれば 「風景の物語」
とは、私がその現在場を訪れたことで、自然風景の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで発生した内なる時間の流れが紡いだ
「私自身の物語」 である。 他方、私をとりまく自然には 「時間は存在せず(流れず)」、運動する風景として、ただそこに存在しているのである。
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※) 「ペアポール宇宙モデル」
の構築にあたっては “ ひも状物質 ” の項で 「時間の流れ(速度)は、人間の意識波の波動速度と同一で、それは光速度であり、この宇宙にひとたび現れたものは永遠に存在する」
としたが、そのよりどころを、このような日常生活の断象としてかいま見ることができる。
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