Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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永遠性の確立(2)〜この日のまま
 第663回第664回の「風景の物語」では「撮影した自然風景に日付を記載しない限り、撮影した私をのぞいて、誰もその自然風景の時系列を判定できないとはいかなることか」について論考した。しかしてその論考の帰結は以下のようであった。
 私の解答は「自然そのものには時間は存在せず、人間の内にのみ時間が存在する」というものである。以下簡潔に説明すると ・・ 「過去は記憶」で構成され、「未来は想像」で構成される。どちらもはなはだ曖昧模糊とした人間の「主観的な意識作用」である。だが「現在は運動」という確固たる「客観的な物理作用」で構成されている。我々は線形時間の流れとして「過去・現在・未来」を配列し、時間は過去から未来に向かって流れていると考えている(思っている)が、現在はその構成において過去や未来とはまったく異なる。それを同列に配置するのは人間の意識作用のなせる業であって、それ以外には何も根拠がない。つまり、時間は人間の主観的意識場においては、流れていることが保証されるが、現在のような客観的物質場においては、流れているのかどうかは保証されない。私は過去や未来は線形に配列されるものではなく「現在に含まれている」のではないかと考えている。
 以上から考えれば「風景の物語」とは、私がその現在場を訪れたことで、自然風景の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで発生した内なる時間の流れが紡いだ「私自身の物語」である。他方、私をとりまく自然には「時間は存在せず(流れず)」、運動する風景として、ただそこに存在しているのである。
 撮影された自然風景とは前回(第976回 / 永遠性の確立〜あの日のまま)で論考した「定着された意識世界」としての「あの日」の記憶に他ならない。そのあの日とは、私がその現在場を訪れたことで、私の内なる意識場に象出した「この日」のことに他ならない。そうであれば、あの日の永遠性とは、またこの日の永遠性でもある。
 夭折の詩人、立原道造は友人に宛てた書簡の中で「いつか僕は忘れるだろう 思ひ出という痛々しいものよりも 僕は忘却というやさしい慰めを手にとるだろう 僕に この道があの道だったこと この空があの空だったこと ほど今いやなことはない そして今日 足の触れる土地はみな僕にそれを強いた 忘れる日をばかり待っている」と語っている。(第780回 / 詩人とは)
 だが「あの日のあの道」も「この日のこの道」も、ともに道造の内なる意識場によって紡がれた「風景の物語」であって、永遠性の確立は保証されているのである。それほどに悲嘆することはないのである。それでもままならなかったとすれば、道造の悲嘆とは、あるいは、あの日とこの日の「永遠性の確立」そのものにあったのではあるまいか。詩人であった道造にとってみれば、過去にも、未来にも、どこにも往かない、という永遠性の確立こそが、忘却するしか他にやりようがない「永遠の虚無の確立」であったのかもしれない。
時は流れず〜その意味とは(第953回
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2016.11.08


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