日本は今、異常な混乱状態にある。 かくなる混乱は新型コロナウイルスの感染拡大がもたらしたものではあるが、その萌芽はそれ以前からすでにして潜在していたのかもしれない。
それは体裁を取り繕っていただけで、ひとたび事が起きれば瞬く間に表面化するような脆弱性に裏打ちされていたのであろう。 その脆弱性が臨界に達すれば取り繕っていた体裁などあえなく崩れ去ってしまう。
それが愚策を連発して尚、覚醒しない現在の日本の実像の全てではあるまいか? その惨状は 第1419回
「国は愚によって滅ぶ」 で描いたことである。 従来。 国の進路を選択するにあたっては、経済的合理性や科学的合意性に基づいて判断が為されてきたことは周知のことである。
だが発生したコロナ禍の解決にはそのどちらを採っても判断基準の必要十分条件を満たさないのである。 かかる判断基準を使って万能を誇ってきた現代人も今回ばかりはお手上げ状態なのである。
こうなれば新たな判断基準を使うより他に道はない。 その基準とは 「哲学的合理性」 に基づいたものではあるまいか? 哲学的合理性とは耳慣れない言葉であろうが平易に言えば
「人は何のために生きているのか」 という基準である。 コロナ禍における難題の構造は 第1418回
「二律背反の帰結」 で論考した。 その中では解決の帰結として 「二兎を追う者は一兎をも得ず」 や 「命あっての物種」 等々の先人の知恵について述べている。
この帰結こそが哲学的合理性という判断基準である。 「命あっての物種」 とは、経済対策を優先して経済を再生してみても、人間が生き残っていなければ国是としては意味を成さないことを述べている。
「何のために人は生きているのか」 を考える人間さえいれば、経済は自ずと再生されるであろう。 しからば優先すべきは感染対策であって、しかるのちの経済対策である。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」 とはそれを戒めている警句である。 哲学的な判断基準とは、言うなれば哲学的価値観ということである。
行き詰まってしまった経済的価値観から哲学的価値観へと視点を転換すれば、見えないものも観えてくるということである。
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