Linear ベストエッセイセレクション
巨大断層の胎動〜日本列島の構造を探る
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フォッサマグナの胎動
長野県北部地震
 2014年11月22日、22時8分、長野県北部をM6.8(震度6弱)の地震が襲った。私が居住している松本市は震度4であったが、地中から突き上げるような揺れに言いようのない恐怖を感じた。震源は糸魚川静岡構造線の北端に位置する神城活断層である。遡る2011年6月30日には神城活断層から南下した松本市近郊を通過する牛伏寺活断層を震源とするM5.4の地震が起こっている。糸魚川静岡構造線とはフォッサマグナ(大地溝帯)の西端に位置する新潟県糸魚川から静岡県に繋がる140〜150Kmに及ぶ日本最大級の活断層帯であり、神城活断層、牛伏寺活断層ともにその一部を構成している。弓なりに湾曲した日本列島の中央部に位置するこの地域は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の歪みが最も集中する箇所であるといわれている。言いようのない恐怖の根源はその蓄積された巨大なエネルギがいつかフォッサマグナの構造線を動かす日が来るであろうことを内心怖れていたからに他ならない。
 フォッサマグナとは、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯であり、中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる。語源はラテン語の Fossa Magna で、「大きな溝」を意味する。本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断し、西縁は糸魚川静岡構造線、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線とされる。フォッサマグナは、その西縁と東縁で囲まれた「面」であり、5億5,000万年前〜6,500万年前の古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物でできた新しい地層が溜まっている地域である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示しているという。 ちなみに松本市から北上した山地に広がる四賀村に建つ四賀村化石館には全長約5.5m、世界最古のマッコウクジラの化石が陳列されている。昔日、化石館を訪れた私はその化石を前にして、この地が海底にあった太古の風景を思い描いて嘆息したことを覚えている。 村の標高は900m〜600mに位置する。
フォッサマグナの風景
 国立野辺山天文台の口径45mの大電波望遠鏡を左に見て少し坂道を登ると平沢峠に至る。峠には大きな駐車場が用意され展望台となっており、眼前に八ヶ岳の主峰、赤岳(2899m)を中心にした巨大な山塊がおしげもなくその全貌を見せている。まさに人と自然がかけねなしに対峙できるまれなる場所である。しばしの雄大な眺望から我にかえった私の視線は展望台の縁に忘れ物のようにポツンと佇む石碑を見いだした。 以下はその石碑の写しである。
フォッサマグナ発想の地
平沢からの眺め
日本列島は東西に弓なりに地形が形成されています。そこには大きな溝状の地質構造が走っていますが、それを “ フォッサマグナ ” といいます。その命名者がエドムント・ナウマン博士(ドイツ人1854〜1927)です。ナウマン博士は、1875年から三回の旅行を行い、その結果を1885年の論文「日本群島の構造と起源について」において、「グローセル・グラーベン(大きな溝)」として説明し、翌1886年に名称を “ フォッサマグナ ” としました。第一回の旅行は、1875年(明治八年)十一月に行われ、そのときに平沢を訪れたナウマン博士は、ここから赤石山脈(南アルプス)を眺めた景色をきっかけに、フォッサマグナを考えました。
抜粋(ナウマン博士の紀行文より)
朝になって驚いたことに、あたりの景色は前日歩き回ったときとは全く一変していた。それはまるで別世界に置かれたような感じであった。私は幅広い低地に面する縁に立っていた。対岸には、3000mあるいはそれ以上の巨大な山々が重畳してそびえ立っていた。その急な斜面は鋭くはっきりした直線をなして低地へ落ち込んでいた。 (中略) そのとき私は、自分が著しく奇妙な地形を眼前にしていることを十分に意識していた。
 フォッサマグナを知っていても、その由来となると知る人は多くはないであろう。私はあらためて眼前の絶景を眺めなおしながら、ナウマン博士の直観を思い描いてみたが、日本列島を形作った太古の地質構造の生成を見いだすことなど到底できそうになかった。長年に渡って様々な調査地を回って眺めた膨大な地勢風景を脳裏に蓄積していたナウマン博士だからこそ、この平沢の頂に立つことで、それらの混交した風景が瞬時にひとつの「フォッサマグナの風景」に凝縮したのであろう。それはまた私が言う「直観的場面構築」の意識メカニズムに他ならない。それを裏付けるかのようにナウマン博士の足跡は長野県北部に位置する野尻湖から発掘された絶滅ゾウの化石が「ナウマンゾウ」と命名されたことにも残されている。博士は日本の地質学研究にとどまらず化石長鼻類研究の草分けでもあったのである。 明治8年と言えば維新まもない今を遡る140年前のことである。
中央構造線
 中央構造線は関東から九州へ、西南日本を東西に横断する大断層系で、フォッサマグナ同様、1885年(明治18年)、エドムント・ナウマン博士によって命名された。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。フォッサマグナ域内の中央構造線に注目すれば、静岡県水窪から青崩峠を越えて長野県に入り、伊那山地と赤石山脈の間を、大鹿村〜分杭峠〜長谷村へと北上し、高遠町の東方から杖突峠を通り、茅野市の諏訪大社前宮付近へと続き、フォッサマグナの西端を南北に縦断してきた糸魚川静岡構造線と諏訪湖周辺で交差する。かって諏訪湖から杖突峠〜高遠町〜長谷村〜分杭峠〜大鹿村までの中央構造線上を車で走破したことがある。まさに起伏に富んだ地形であり、分杭峠越えには難渋したことを覚えている。分杭峠はまたゼロ磁場のパワースポットとして知られている。地磁気を相殺してしまうほどの強い逆磁束が発生しているのであろう。それはまた日本列島を分断する断層面が激しい力でせめぎあっている証左でもあり、工学的に考えれば、あるいは2つの岩盤に巨大な力が加わることで生まれた圧電効果による誘導磁界のなせる業なのかもしれない。分杭峠を大鹿村に向かって南下した山腹に中央構造線が地面に露出した断層露頭(北川露頭)がある。1000kmに渡って日本列島を東西に横断する我が国最長の断層の素顔を肉眼で間近に見た私はいつになく気持ちが高揚したことを覚えている。大鹿村には村営の中央構造線博物館が殺風景な川原を望み中央構造線のほぼ真上に建っている。その博物館を訪れたのはもう20年ほども前になる。そのときは中央構造線のことなど深く考えてのことではなく、なにげなく入館したにすぎなかった。今思えば、それが私とフォッサマグナとの最初の出逢いであった ・・ あたりは灼熱の太陽に照らされた反射光でまぶしいばかりであり、額からはとめどなく汗がしたたり落ち、怖ろしいほどの静寂に包まれた真夏の昼下がりであったことを覚えている。
プレートテクトニクス
 フォッサマグナを探求するうえでかかせない理論が「プレートテクトニクス理論」である。プレート理論ともいわれ、1960年代後半以降に発展した地球物理学上の学説で、地球の表面が何枚かの固い岩盤(プレート)で構成されており、このプレートが地球内部のマントルの対流に乗って互いに動いているとする説である。大陸移動説を裏付ける根拠となった理論でもある。東北日本東側(三陸沖)の海中では、約1億年前に太平洋東部で生まれた太平洋プレート(比重の大きい海洋プレート)が、東北日本を載せた北アメリカプレート(比重の小さい大陸プレート)に衝突、重い太平洋プレートが、軽い北アメリカプレートの斜め下40〜 50°の角度で沈み込んでいる。プレートが衝突して沈み込んだ部分は海溝となり、衝突した岩盤が互いに動くことで地震が発生する。2011年3月11日に発生した東日本大震災はこれを起因とした地震である。また地下深く沈んだ海洋プレートから分離された水が周辺の岩石の融点を下げるため「マグマが発生」、大陸プレートに多くの火山が生成される。さらに海洋プレートに押された大陸プレートにはその圧縮応力で多くの断層が生じ北上山地などが生成された。本題とは逸脱するが南極大陸の一部であったインドプレートが分離北上、約4,500万年前にユーラシアプレートと衝突、8,000mの高峰が連なるヒマラヤ山脈が生成され、広大なチベット高原が生成されたことは衆知のごとくである。
 このプレートテクトニクス理論から着想を得た小松左京がSF小説「日本沈没(1973年刊)」を著したことはよく知られている。のちに小松氏は日本を沈没させるために費やした知的努力は並大抵のことではなかったと述懐している。小松氏の努力もさることながら、問題は日本が沈没してしまう「リアリティをもったシナリオ」が成立してしまうことである。あるいは執筆のさなか日本列島を俯瞰しながらそのリアリティをともなった危機感で小松氏の胸襟は日々さいなまれ続けたのではなかったか。「細部に注目すれば全体が見えず、全体に注目すれば細部が見えない」とは事の真理である。全体を見て事を語れば「奇想天外」となり、細部を見て事を語れば「枝葉末節」となる。阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の後、あっけなく倒壊してしまったビルや高速道路を目のあたりにした小松氏は日本の土木建築技術を司る権威者に面談して「なぜにこのようなことになったのか」を問うたという。返ってきた「それは想定外であった」という陳述に絶望的な落胆を覚えたと述べている。小松氏の憤慨が意味するところは、科学技術において、およそ「想定外」などという思考停止した解答などありえないというものであろう。科学者ともあろう者が、そのような身の責任逃れに汲々としてどうするのか ・・ 最後の最後まで思考をめぐらし続け、納得できる科学的真理を追求することこそが「科学者の使命」であるはずだ ・・ と。その後、小松氏は2011年3月11日に発生した東日本大震災の惨禍を看取るようにして2011年7月26日にこの世を去っている。80年の歳月をまっしぐらに駆け抜けた人生であった。「日本沈没」の終章、富士山はじめ各地の火山が大噴火する中、瀕死の竜がもだえ苦しむように日本列島は海中に没していく。新たな活路を目指して海外に移住していく日本人の姿と、あえて国内に留まり日本列島と運命を共にしていく日本人の姿を、ともに描いて物語は終わっている。かって小泉元総理が政治には「まさか」という坂があると述べていた。だが「まさか」という坂はなにも政治にかぎったことでは決してないのである。この稿を書いている現時点でさえ、頻発する地震はいうまでもなく、御嶽山は噴火し、阿蘇山ではマグマ噴火が始まり、活動を休止していた各地の火山のいくつかでは火山性微動の回数が増え続けている。

2014.11.30

中央構造線の胎動
 「フォッサマグナの胎動」を書いたのは2014年11月.30日のことである。それはフォッサマグナの西端線を形成する糸魚川静岡構造線の神城活断層を震源として2014年11月22日に発生した長野県北部地震に促されて起稿したものである。その後、2016年4月14日、熊本地震が発生、震源域として中央構造線と呼ばれる日本列島を東西に縦断する大断層がクローズアップされたのは衆知のごとくである。
 大断層と規定する場合、「断層の長さ」と「断層面のずれ量」の2つの観点が考慮される。中央構造線はそのどちらをとっても文字通り日本最大級の断層である。断層の長さでは、東端は長野県諏訪市の杖突峠から始まり、長野県南部を経て、静岡県に抜け、紀伊、四国を貫いて、西端は九州にまで達する。総延長は1000キロを超える。断層面のずれ量においては20キロを超えるとされている。
 通常、断層付近は岩石が破砕され浸食されることで谷地形となって地表に断層が露頭することは少ないが、長野県内にはこの中央構造線をまじかに観察できる露頭がいくつかある。伊那市長谷村にある「溝口露頭」はこの好例である。また溝口露頭から南に分杭峠を越えた位置に北川露頭がある。北川露頭については上記の「フォッサマグナの胎動」で書いている。
 溝口露頭は伊那市高遠から秋葉街道を分け入った長谷村の地、南北に細長く延びた美和ダム湖の中央付近東側の湖岸にある。そこに中央構造線公園と呼ばれる公園があり、その公園内に溝口露頭があることは「つい先日」知ったことである。その湖岸から対岸に向かって架かっている赤い吊り橋を撮影するために訪れたこともあったのであるが、ついぞ気づくことはなかったのである。
 だが2011年3月11日に発生した東北大震災後、4ヶ月ほどして訪れた美和ダム湖の印象を「信州つれづれ紀行(第288回)」で以下のように書いている。
 伊那から高遠を経て長谷に向かって車を走らせると右手に、高さ69.1m重力式コンクリートダム「美和ダム」が見えてくる。美和ダム湖はエメラルドグリーンの満々たる水量を蓄えて静かに横たわっている。湖周辺には多くの動植物が見られ、特に昆虫類は2,000種近くが生息しているという。ダム湖にはかなりの堆砂量があるため、上流に貯砂ダムを建設、洪水時には砂の混ざった水がダム湖へ流入しないよう分派堰ゲートから、バイパストンネルを通って、美和ダムの下流に流すようになっている。美和ダムの堤体を見上げる位置に、ローマの遺跡のような形をしたその排水口が黒い大きな口を開けてその時を待っている。 ダム湖をさらに遡上すると「ゼロ磁場」のパワースポットで今話題を集めている「分杭峠」を経て、「大鹿歌舞伎」で有名な大鹿村に至る。日本列島を縦断する「中央構造線」が走るこの地域は地球物理学的にみても特異な空間である。3.11東北大震災以後、この列島の地中奥深くでは、何か得たいのしれない力がうごめいているようで気がかりだが、願わくはその力がうまく拡散して、ことなきを得ることである。
 今文面を読み返すとそれは共時性のごとくの予感で書かれたもののようにも思われる。あるいはその共時性的な予感が、その後の太古地質構造に向けた探求の源泉であったのかもしれない。
 以下の掲載写真は溝口露頭を南側から撮ったものである。向かって右側の黒い部分は西南日本外帯に属す三波川帯の結晶片岩類(石墨変岩)であり、およそ8000万〜7000万年前のものである。左側の茶色い部分は西南日本内帯の岩石であり、およそ1億年前のものである。通常は中央構造線の内帯側には領家変成岩類が分布しているが、ここでは三波川帯の岩石と領家帯の岩石の間に貫入岩が挟まっている。この貫入岩は内帯側の岩石で、約1500万年前に入り込んだマグマによって形成されたものであるとされている。これらの岩石は種類も生まれた場所も異なっている。互いに遠く離れていた岩石がいつどのようにして隣り合わせになったのかはいまだに解明されていない。
中央構造線 溝口露頭 (筆者撮影)
 溝口露頭は中央構造線の東端部に位置し、それから1000キロ離れた西端部は今も余震が続く熊本である。露頭を眺めているうちに底知れない地球の胎動を垣間見たような畏怖を覚えた。想像を絶するような2つの巨大な岩盤がこの断層面を境にして強大な力で互いにせめぎあうことで「日本列島の背骨」が構成されているのである。いつの日かその力のバランスが崩れたとき如何なることになるのかは予測不能である。小松左京が描いた「日本沈没」のイメージがリアリティをもって脳裏に浮かんできた。

2016.05.26

フォッサマグナの点と線
 長野県は 「フォッサマグナ」 の只中に位置する。 私はその中心都市である松本市に居住しているのであるが、フォッサマグナの痕跡は地中深くに埋もれてしまっていて、その存在を忘れたかのように、その地の上をあわただしく右往左往する日々を過ごしているのが現状である。 しかし、刻として 「時空断裂の狭間」 にその痕跡を覗き見ることがある。 ここに掲載した風景はその 「フォッサマグナの点と線」 の記録である。
穴沢のクジラ化石 / 長野県松本市取出
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 いつかは訪れようと思ってはいてもできなかった長野県松本市四賀村穴沢地区にある 「フォッサマグナ形成」 を物語る痕跡であるクジラ化石の現地保存展示を意を決して訪れることにした。
 フォッサマグナとは、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯であり、中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる。 語源はラテン語の Fossa Magna で、「大きな溝」 を意味する。 本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断し、西縁は糸魚川静岡構造線、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線とされる。 フォッサマグナは、その西縁と東縁で囲まれた 「面」 であり、5億5,000万年前〜6,500万年前の古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物でできた新しい地層が溜まっている地域である。 この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示しているという。 ちなみに松本市から北上した山地に広がる四賀村に建つ四賀村化石館には全長約5.5m、世界最古のマッコウクジラの化石が陳列されている。 昔日、化石館を訪れた私はその化石を前にして、この地が海底にあった太古の風景を思い描いて嘆息したことを覚えている。 村の標高は 900m〜600m に位置する。
 穴沢のクジラ化石を訪れるなら混雑を避けた5月連休前の平日であればと向かったのであるが、それは杞憂であって、あたりに人影は途絶えていた。 それどころか、道行く人に場所をたずねてもその存在さえも知らないという。 ようようにして畑仕事をしていた村人からその消息を聞き出してやっとたどり着くことができた。 以下の記載はそのクジラ化石の概要である。
 四賀村一帯には泥や粘土が堆積して出来た泥岩が広く分布し、その地層は別所層(1500万年前)と呼ばれている。 別所層は別所温泉付近を模式地として付けられた名前であるが泥岩が多く、一部に薄い砂岩や石灰岩をはさんでいる。 「穴沢のクジラ化石」 は、昭和11年12月、穴沢川の砂防工事中に発見されたクジラの化石であって、脊椎骨12個、左側の肋骨2個、右側の肋骨6個 (他に棒状の骨1個、頭部は欠損)である。 歯クジラの仲間の化石と推定されている。 クジラの化石は新第三期時代の堆積岩の中から1個あるいは2個の脊椎骨や肋骨が出てくることはあるが12個もの脊椎骨が並んでいる例はない。 昭和13年に長野県の天然記念物として指定され発見地に産状のまま保存された。
 発掘現場のクジラ化石を前にひとり静寂の中で立ち尽くしているうちに記憶は遙か1500万年前の時空に回帰していった。 やがて化石化していたクジラはありし日の姿として甦り海中を悠々と泳ぎだす。 当時の日本列島は後に 「フォッサマグナ(大地溝帯)」 と呼ばれる海峡のような海溝によって東北日本と西南日本に分断されていた。 その海溝を使って彼らは日本海と太平洋を自由に往来していたにちがいない。 あたりの地層から見つかるさまざまな種のクジラ化石がそのことを如実に物語っている。 その後に起きた大地殻変動によって海溝は地溝へと隆起し、現在の列島が形成さることになるが、その過程で海底に堆積した砂岩層の中に紛れ込んだ彼らは、その存在の痕跡を化石となることで今に遺し得たのである。 1500万年余の遥かな時を超えて遭遇した 「生命の奇蹟」 には感謝するしかない。
 以下は蛇足ながら付加した私の推測である。
 発掘現場の穴沢が在る四賀村の標高は 900m〜600m である。 そこからフォッサマグナを形成する土台となった海溝の深さを推測すれば、その海溝を通って巨大魚のクジラが日本海と太平洋を自由に往来していたことを考え合わせると、水深は 1000m ほどであったであろうか? また四賀村一帯からさまざまな種類のクジラ化石が発見されていることからすれば、海溝はクジラの成育に好適な海域であったことが推測される。 水深が 1000m ほどであったとすれば、その海溝の南側に位置する日本海溝の水深 7000m 以上や、その海溝の北側に位置する日本海の水深 3700m 以上に比べて、太陽光の恵みを受けるに良好な環境であったであろう。 海溝には彼らが食料としていたプランクトンが豊富に繁殖していたであろうし、海溝を渡る潮流がその環境を充分に保全していたはずである。 その後に起きた大地殻変動による隆起で海溝は地溝へと変化してフォッサマグナ(大地溝帯)となるが、クジラ化石を含んだ地層の現在の標高 900m〜600m から推測すれば、隆起の高さは 1600m ほどであったであろうか? フォッサマグナの西端を形成する北アルプス連峰の現在の高さ 2800m〜3000m からすれば、隆起前はその 1200m〜1400m ほどが海上から顔を出していたであろう。
 これらの推測は私の脳裏に想起された仮想であって実像ではないのかもしれない。 だが私の眼前に象出したフォッサマグナの断章としての風景であることだけは確かである。
四賀キャニオン / 長野県松本市会田
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 穴沢のクジラ化石をあとにした私は次なる目的地である四賀キャニオンと呼ばれる 「岩井堂の砂岩層」 の露頭に向かった。 露頭とは地層や岩石が露出している場所をいう。 四賀キャニオンもまた穴沢のクジラ化石と同様に行き着くには多くの労力を要した。 行きつ戻りつしたあげく、畑仕事をしていた好人物の村人に教えてもらってようやくたどり着いた頃には陽はすでに西に傾いていた。
 四賀キャニオンとはアメリカのグランドキャニオンをもじったものであろうが、規模は小さくても地殻の神秘を感じさせるに充分な奇観を呈していた。 地質年代はシガマッコウクジラやシガウスバハギが生きていた約 1300万年前(別所層)よりも新しいものと言われている。 これもまた 「フォッサマグナ形成」を物語る痕跡である。
 かってこの奇観と似た景観に出会ったことがある。 それは長野県上田市富士山にある 「鴻の巣」 と呼ばれる砂岩層の奇観である。 訪れたのは 2010年12月 のことであった。 以下の記載はそのときのものである。
鴻の巣 / 長野県上田市富士山
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 上田市指定天然記念物に指定されている奇景 「鴻の巣」 は、東西 190m、高さ 60m ほどの崖であり、屏風岩とも呼ばれている。 鴻の巣の名称の由来は、昔コウノトリが営巣した場所と伝えられているが定かではない。 鴻の巣の石がどれも海岸の砂浜の石のように丸いのは、はるか昔に上田地方が海の底であり、その後の地殻変動で隆起して陸地となり、かくこのように露出したものであることを物語っている。 また縄文時代頃までは上田のかなり大きな地域が湖や湿地帯だったようでもある。 訪れるにおいては場所がわからず少々苦労したが、あたりは狭いながらも公園となっており、晩秋の西日を浴びた白い崖が見上げる位置に静かにたたずんでいた。 眺める私には、その白い壁面が、この地方がたどったであろう 「悠久な時空間」 の化石のようにも思われた。 映画 「隠し砦の三悪人」 のロケ地として使用されたというが、なるほどと納得がいく景観である。
 以下の記載は鴻の巣に立つ案内看板の表示内容である。
 今からおよそ 2000万年前 から 500万年前 の新生代第三紀中新世という時代、このあたり一帯はフォッサマグナと呼ばれる海域で、海底には、溶岩や小石・砂・泥などが積もって厚い地層をつくりました。 鴻の巣の岩石は、そのうちの 約1300万年前 から 950万年前 にかけて堆積した礫岩と砂岩で 「青木層」 と呼ばれる地層の一部分です。 鴻の巣の地層は、地殻変動によって長い年月をかけて海底から隆起するときに圧し曲げられ、北側に四十度から六十度ほど傾斜しています。 崖に見られる茶色の横縞模様は、隆起後に地層の境目に浸みこんだ鉄分の色です。 砂岩層には、木の葉の化石も見られます。 礫はおもにチャートという岩石です。 他に黒色の粘板岩や硬砂岩、白っぽい流紋岩、それに緑色凝灰岩などがあります。 純粋なチャートは白色ですが、不純物が混ざった灰色・緑色・褐色など様々な色のものがあります。 チャートや粘板岩は、上田小県地方にはない岩石ですので、佐久山地や赤石山脈方面から運ばれたものと考えられます。 また、緑色凝灰岩は、太郎山や独鈷山地域の岩石で、それが礫として入っていることから、当時これらの山の一部は陸地になっていたことがわかります。 鴻の巣の崖は、幅が東西およそ 190m、高さが最高約 60m で、堆積岩の崖としては上田市では最大です。 崖のすぐ下を流れる鴻の巣川の浸食によって、地層が削り取られてできたものです。 礫や砂は水を含みやすくもろいので、絶えず少しずつ崩れ落ちています。 鴻の巣の名称の由来は、昔、雁の一種の鴻(ヒシクイ)か鶴の仲間の鸛(コウノトリ)が営巣した場所と伝えられていますが、確かなことはわかりません。
 地質年代が 2000万年前から 500万年前 の新生代第三紀中新世という時代というからほぼ四賀キャニオンと同時代である。 鴻の巣の地層は 「青木層」 と呼ばれる地層の一部分であるとされるが青木と四賀キャニオンの 「別所層」 の一部分であるとされる別所は隣接地であって 「同じ地層」 であるといっても間違いではあるまい。 しかして、鴻の巣と四賀キャニオンは直線距離にしておおよそ 25km ほどである。 同じフォッサマグナの海域にあったといっていい。 鴻の巣の砂岩層には木の葉の化石が見られるというが、四賀キャニオンの砂岩層にも同様に波の化石と呼ばれるリップルマークや虫の巣穴の痕跡等が見られる。 あるいは穴沢のクジラ化石となった彼もまた鴻の巣の海底を泳ぎ回っていたのかもしれない。
 ともあれ時に応じて訪れてきた 「鴻の巣」、「穴沢のクジラ化石」、「四賀キャニオン」 等々は 「フォッサマグナの点と線」 であって、その謎を解き明かす重要な手がかりを指し示している。 喧噪の現代社会に生きている者にとっては 1000万年 を超えるほどの悠久な時の流れを肌身に体験することなど希なることに違いない。 だが長きに渡って変哲なき荒野を彷徨するうちにはときとしてその僥倖にめぐり逢うこともあるということであろう。 しかしながら訪ね歩いたこれらの 「点と線」 の痕跡のどれもが訪れるに苦労するほどに荒廃し忘れ去られていることはどうしたことであろう。 過去なき未来などいかに構築できようか? 温故知新。 人は常に 「故きを温ねて新しきを知る」 のである。

2022.05.10


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