絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。(別に、天和元年1681年、絵島は大和郡山に生まれたという説もある)元禄16年(1703年)23歳の時に縁あって紀州鶴姫に仕えたが、24歳の時に鶴姫が夭逝したため、白井の友人の奥医師、奥山交竹院(伊豆の利島へ遠島)の世話で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の側室、お喜世の方(後の月光院)に仕えることになった。家宣が綱吉の世嗣と決まって江戸城に入った時、絵島は月光院に随行して本丸に入りお使番になった。月光院が家継を生んだ年、家宣が6代将軍になると、絵島は400石を賜って29歳で年寄となった。正徳2年(1712年)家宣死去、家継が7代将軍となると絵島は600石を加増されて大年寄となり、大奥で大きな力を持つようになった。時に32歳であった。大年寄という役は1000人からいる女中を取り締まる年寄頭で大奥に数人いる。呉服商後藤縫殿介、薪炭商都賀屋善六等々の利権亡者たちが争って絵島の歓心を得ようと、船遊び、芝居見物に三回ほど誘ってもてなした。女中数十人を引き連れての遊興であった。大奥の女中の不評をかって失脚した老中もいたくらいで当時の大奥の力は強大であった。
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