高遠へ流された最初の六年間、長谷村非持の火打平(ひょうじだいら)の囲み屋敷にいた頃、絵島様は、漢学の書を借りたことが縁となって遠照寺に参詣するようになりました。絵島様はそこで、当時界隈きっての名僧と謳われた遠照寺中興の祖、見理院日耀上人と出合い上人に導かれて、女人成仏を説く法華経の教えに深く帰依するようになったといいます。遠照寺では、藩の許可を得て「絵島の間」なる一室を設けて絵島様を迎え、絵島様は、日耀上人の法話を聞き上人と碁を打つのを唯一の楽しみとしたと言います。流人生活を送られる絵島様にとっては、厳しい冬の中に訪れた小さな日溜まりのような魂の安らぎの日々でありました。高遠での絵島様は、一汁一菜の厳しい精進潔斎のうちに自らを律し、法華経の転読と唱題を日課として、み仏に帰依した静かな日々の中に後半生を送られたといいます。それは、自らの罪への激しい坑がいと贖罪の日々でもありました。寛保元年(1741年)旧暦四月十日寂、享年六十一歳、法号
信敬院妙立日如大姉、墓地には遺言により歯骨と毛髪が納められています。
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