Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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遥かなり絵島(1)〜泣きぬれて暮れゆきて
 絵島のことである。今から300年前、江戸の巷間を騒然とさせた前代未聞の疑獄事件、「絵島生島事件」の主役、絵島その人の話である。
 数年も前になろうか、晩秋から初冬に移りゆく肌寒い日の午後、私は伊那市高遠町の山里にひっそりと建つ蓮華寺を訪れた。本堂を裏手に回った高台にその人の墓石が寂しく据え置かれ、横には等身大と思われる絵島の石像が当時の装束を身にまとってすっくとたたずんでいた。流れ行く蕭条たる静けさの中を通過してきた黄昏の斜光がその端正な面立ちをほんのり茜色に染めている。大奥女中の容色は遥かな時空を越えてさえ、少しも衰えることなく、か細い肩には余るほどの矜恃を載せ、小さき胸には収まらぬほどの意地を秘め、誇り高く光彩を発していた。その「像としての存在感」はかって絵島が幽閉されていた囲い屋敷で感じた「名としての存在感」を遥かに凌駕する艶めかしさで私に迫ってきた。私は絵島の語る声を聞き漏らすまいと身を虚しくして現前する絵島その人を眺めつづけた ・・・・・・ /
えにしなれや もも年の後 古寺の 中に見出でし 小さきこの墓    田山花袋
 大正5年(1916年)7月26日、作家、田山花袋が高遠町内の蓮華寺の裏山、桜の老樹の下に小さな墓を発見、こう詠んだ。そこに葬られているのは、江戸時代、権力争いの中に翻弄された末に遠流に処された悲劇の絵島だった。町人文化が華開く江戸で起きた大騒動も絵島の死によって終わりを告げ、以来2世紀近く、田山花袋によって絵島の墓が発見されるまでは、世間からはまったく葬り去られていたのである。
絵島生島事件
 江戸城大奥を揺るがした絵島生島事件は正徳4年(1714年)1月12日に端を発する。その日、大奥の年寄絵島(当時34歳)は、月光院の名代として前6代将軍家宣の命日に芝増上寺へ参詣した。月光院とは、家宣の側室で7代将軍、家継の生母、お喜世の方のことである。絵島は月光院の右腕であった。芝増上寺の帰路、絵島は大勢の供の者を従え、木挽町(現在の銀座4丁目)にある山村座に立ち寄り芝居見物。芝居終了後には当時評判の美男役者の生島新五郎と茶屋で酒宴におよんだ。酒宴の結果、絵島一行は大奥の門限である午後4時までには帰りつかなかった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡るところとなってしまった。このことで絵島は、生島新五郎との密通を疑われた。冤罪であったという説も強いが、真実はともあれ、下された処罰は過酷なものであった。
下された処罰
 江戸中町奉行坪内定鑑、大目付仙石久尚、目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。絵島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島。連座して、旗本であった絵島の兄の白井平右衛門は妹の監督責任を問われ武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟豊島平八郎とその子供は追放。月光院の嘆願により、絵島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩、内藤清枚にお預けとなったが、事実上の流罪であった。絵島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、絵島を山村座に案内した奥山喜内は死罪、山村座座元の五代目山村長太夫は伊豆大島への遠島、作者の中村清五郎は伊豆神津島へ流罪。取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放。月光院派の女中たちは着物や履物を取り上げられ、死人か罪人しか通さない平河門手前の不浄門から裸足で追放。その他連坐刑も含め遠島、改易、永の暇を下された者は1500人以上だったという。また山村座は廃座、残った市村座、森田座、中村座、の3座にも風紀の乱れを理由にそれぞれお咎めがあり、興行規制が敷かれた。
絵島の生い立ち
 絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。(別に、天和元年1681年、絵島は大和郡山に生まれたという説もある)元禄16年(1703年)23歳の時に縁あって紀州鶴姫に仕えたが、24歳の時に鶴姫が夭逝したため、白井の友人の奥医師、奥山交竹院(伊豆の利島へ遠島)の世話で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の側室、お喜世の方(後の月光院)に仕えることになった。家宣が綱吉の世嗣と決まって江戸城に入った時、絵島は月光院に随行して本丸に入りお使番になった。月光院が家継を生んだ年、家宣が6代将軍になると、絵島は400石を賜って29歳で年寄となった。正徳2年(1712年)家宣死去、家継が7代将軍となると絵島は600石を加増されて大年寄となり、大奥で大きな力を持つようになった。時に32歳であった。大年寄という役は1000人からいる女中を取り締まる年寄頭で大奥に数人いる。呉服商後藤縫殿介、薪炭商都賀屋善六等々の利権亡者たちが争って絵島の歓心を得ようと、船遊び、芝居見物に三回ほど誘ってもてなした。女中数十人を引き連れての遊興であった。大奥の女中の不評をかって失脚した老中もいたくらいで当時の大奥の力は強大であった。
事件の背景
 絵島生島事件がいかなるものであり、なにゆえに大事件へと発展したのか。背景は以下のようであった。天英院は前将軍、家宣の正室である。しかし彼女の生んだ男児は早世し、将軍の生母となることはできなかった。月光院は前将軍、家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで7代将軍家継(就任当時はわずか4歳)となり、将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。この正室対生母の対立の結果、生母月光院の家老とも言える絵島が、正室天英院派に狙われたとみることができる。ただ、天英院という人は、思慮深く温厚な人物だったようで、天英院が直接事を起こしたとみることは疑問である。綱豊が6代将軍家宣となり、お喜世の方がその子を生んだとき、絵島は年寄りに上げられている。家宣が死に、4歳の家継将軍が生まれた。月光院となったお喜世は将軍の生母としての威勢を張ることによって、家宣の正室、近衛家からきた天英院、他の2人の側室から嫉妬反感の攻撃を受ける。絵島を厳しく取り調べた評定所の役人たちは、すべて天英院派に属していた。年若い月光院は、家継の補佐役である側用人、間部詮房を頼りにし、詮房は妻も側室も持たず、江戸城内に住んで政務に励んだという。家宣が学問の師として迎えた新井白石と政治顧問として迎えた間部詮房を追い込むために月光院派の絵島が狙われたことは間違いない。事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、7代将軍家継がわずか8歳でこの世を去ると、8代将軍には紀州の徳川吉宗がなり、同時に、間部詮房、新参の儒学者、新井白石らは失脚していった。
 正徳4年2月22日、絵島は、預かり先の白井平右衛門宅へやってきた目付役人に、厳しく取り調べられた。世上には、絵島と生島という役者とのうわさ以上に、月光院と間部詮房との間に「私通」があったのではないかということが、取り調べの目的であった。この絵島取り調べの前に、生島新五郎は目付けらによって徹底的に取り調べられ、「石抱き」という拷問にかけられた。石抱きとは、両手を後ろ手に荒縄で縛りあげ、正座させた膝の上に四角の石を乗せ、白状するまでだんだん石を重ねていき、その石を前後左右に揺り動かす。このため皮膚が破れ、その苦痛から逃れるために目付らの言い分をすべて認めさせられ、生島新五郎は、「絵島と情交があった」と白状した。この新五郎の自白を盾に、絵島は「うつつ責め」という厳しい拷問を受けた。この「うつつ責め」とは、三日三晩一睡もさせずに責め立て、意識朦朧の中で無理矢理に供述させる拷問だが、このような責め苦にあっても、絵島は新五郎との情交はなかったと最後まで頑強に否定した。絵島は老中らの拷問も交えた厳しい追及にも、「月光院様と詮房殿には不純な関係は一切ありません」と明確に否定している。絵島は裁きの場にあって生島とのあいだに何らやましいことは断じてないと言い開き、大奥のことについては、口外一切厳禁の法度だからと固く口をつぐみ、三日三晩不寝の糾問と鞭打ちに何も語らず、月光院と間部詮房をかばって一言も語ることがなかったという。絵島の罪状は、事件の担当者、老中秋元但馬守喬知が若年寄、大目付とともに評定し、おのが情欲に負けて大奥の重い職責にありながら風紀を乱したとされたが、その冷酷無残さは前代未聞であった。正徳4年3月のことであった。
信州高遠への流刑
 絵島に高遠への遠流が下された。正徳4年3月12日午後2時ごろ、高遠藩江戸屋敷に、老中阿部豊後守正喬から切り紙がきた。城戸十兵衛が出頭すると2通の書付が渡された。1通には絵島の取り扱いの指示が書かれていた。
一、かろき下女一人附置き候事。
一、食物一汁一菜に仕り朝夕両度ノ外無用ニ候。
 (食事は一汁一菜とし、朝夕の二食とすること)。 附、湯茶ハ格別 其ノ外酒菓子何ニても給えさせ申間敷候(菓子、酒などは与えてはならないこと)。
一、衣類木綿着物帷子(かたびら)の外堅無用ニ候。
 (衣類は木綿の着物とし、帷子(かたびら)以外は無用のこと)。
 右之外ノ儀ハ追て伺わるべく候 以上
 この書状と同時に、正喬から直接、城戸十兵衛へ、口頭で次のように申し渡された。
一、絵島はお預けではないから、そう心得て、遠流の格で諸事を取り計らい申すよう、つまり高遠へ遠流と心得られよ。
一、申すまでもないことではあるが、男女間の関係は随分気を付けられよ。
一、絵島の受け取りについては委細を坪内能登守と打合せ、牢屋で請取られたし
 城戸十兵衛は早速立ち帰り、絵島請取りの人数をつれ町奉行所に出張し、町奉行坪内能登守から絵島を受け取り、駕籠に錠をおろして藩邸に運び、一室に監禁した。絵島を受け取るとき、城戸十兵衛は、係官に絵島の月経の有無を尋ねた。淫奔の女であったからということで妊娠を知らずに高遠へ押送したのち、子どもでも生まれたならば、あらぬ疑いを受けることを恐れたからだ。牢舎の役人は高遠方の入念に感じ早速絵島に訊ね、その滞りのなかったことを伝えたという。高遠藩にとっては天から降って湧いたような、迷惑この上ない災難であったに違いない。罪科人とはいえ、江戸城大奥で権勢を振るった大年寄り、過ちや粗忽があったらお家断絶にもつながりかねない。藩主以下家老たちは相談し、どんな些細なことにもいちいち伺い書を出した。翌13日にもなお、幕府へ伺いを出した。これに対して、直ちに附箋で対応を指示してきた。
一、絵島事、屋敷の風並悪しく火事の節は私の下屋敷へ退けてよろしきか。
   下屋敷へ退けられてよろしい。
一、たばこをほしいと申したら出してもよろしいか。
   与えなくてもよい。
一、硯や紙をほしいと申したら渡しますか。
   渡さなくてよい。
一、扇子や団扇や楊枝などをほしいといわれたならば出してもよろしいか。
   与えてもよろしい。
一、髪を結う時、櫛道具・はさみは渡してもよいか。
   それも差し支えない。
一、爪を切りたいと申し出たら、切らせてもよいか。
   それもよろしい。
一、毛抜を欲しい時は出してもよいか。
   よろしい。
一、カネ(歯を染めるために)をつけたいと申す時はその道具を出してもよろしいか。
   出さなくてよろしい。(人妻や奥女中などは歯を染めたが、絵島には許さなかった)
一、風呂に入りたいと申したら湯に入れてよいか。
   差し支えない。
一、病気の節は手医師の薬を用いてよろしいか。
   その通りにいたされたい。
一、絵島へ私(藩主)は折々逢いまして様子をみなくてはなりませんか。
   左様なことはせずともよろしい。
 かくのごとく藩は絵島の取扱いに慎重であり、また幕府の命に背かぬよう、微に入り細にわたり、かつ峻厳であったかがうかがわれる。このお預かり罪人の留置やら、護送やら、在所におけるお囲み屋敷の準備など、高遠との連絡で忙しい日々が続いた。高遠藩では、道中事故があってはと特に願って護送の人数を増やし、一行は80余人になった。絵島を高遠まで護送する錠前つきの駕籠は、3月26日(3月28日説もある)の午前4時、四谷を出発した。囚人駕籠に身を入れるときは、裁きの場では気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。江戸出発の折、絵島が詠んだと伝えられる歌が残っている。
浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし    絵島
信州高遠での生活
 信州高遠の内藤駿河守へお預けとなった絵島は、当初は高遠城から一里も離れた非持村火打平に幽閉されていた。絵島が高遠にきて3年目に家継が世を去り、紀州の吉宗が8代将軍となる。翌年、間部詮房は越後村上藩主となって江戸を去る。幕府も大奥も月光院や間部の勢力を恐れる必要がなくなり、享保4年(1719年)11月絵島は冬の西風が寒い非持村火打平から武田信玄が山本勘助らに命じて拡張改装させた高遠城三の丸の「囲い屋敷」に移された。絵島が移された屋敷の外塀は2メートルほどの高さ、その上に1メートルぐらいの忍び返しが組まれている。28年もの長期間、10人近くの武士、足軽に昼夜見張らせることは時の高遠藩内藤家にとってかなりな負担であったろう。最初の囲み屋敷のあった火打平から山室川を遡ること6キロ、日蓮宗の遠照寺がある。当時の住職は、絵島と同じ甲州生まれだったという。絵島が寺を訪れたきっかけは、囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりで、住職の法話を聞き、囲碁の相手もしていたなど、囚われの身ではあったが、寺を訪れることは許されていたという。絵島は日蓮宗へ帰依した。絵島の希望でここの寺に遺品や歯など分骨を埋めた墓がある。高遠に流されてからの絵島の生活は自己に厳しいものであった。蓮華寺に残る検死問答書に日常のことが細かく記されているが、その一例を食事の面にみると、半月は精進日を設けて魚類を断つ生活をしていた。4年後の38歳からは全く精進の毎日で、死去するまで24年間は魚類を全く断つ生活をおくっていたのである。死に臨んで絵島は「墓は蓮華寺に」と告げた。絵島は二度と江戸の土を踏むことなく、寛保元年(1741年)4月10日、61歳でその生涯を閉じた。絵島は江戸在城中より日蓮宗の信者であったため、蓮華寺二十四世本是院日成上人の導きを受け、遺言どうり蓮華寺後丘に埋葬された。戒名「信敬院妙立日如大姉」、妙経百部の回向を受け、永代霊膳の丁重なる扱いを受けた。蓮華寺を訪れた歌人、斎藤茂吉は墳墓を前にして以下のように詠んでいる。
あわれなる 流されひとの 手弱女は 媼となりて ここに果てにし    斎藤茂吉
その後の顛末
 絵島の死後、三宅島に流されていた生島新五郎は寛保2年(1742年)に許されて帰り、翌年73歳で亡くなっている。絵島事件では、たった1ヵ月の間に大勢の人を裁き、死罪、遠島、追放、所払いなど非常に過酷で乱暴極まりない裁きを下した。門限をやぶるという軽微な犯罪である。そこに油をかけ火を大きくしたのは、嫉妬からまる権力闘争であり、大奥内の次期将軍争いのために利用されたといっても過言ではない。門限破りで終身刑とは常軌を逸した処罰であろう。恐るべきは人間の心に巣食う権力の魔性である。「裁定を下した人たちは自責の念のために死ぬだろう」という声が江戸庶民の中から起こった。事実、処断のあった1ヵ月後の4月に、秋元但馬守喬知が死去した。喬知は処断のあった日から邸宅に閉じこもったまま一歩も外出しなかったという。絵島の断罪判決のあった2ヵ月後の5月、老中坪内能登守定鑑が、「流人の扱いに手違いがあった」と将軍からけん責処分を受けた。またこの裁判の主要目付稲生次郎左衛門は出仕拝謁を差し止められている。そして事件後間もなく、事件に関連して処分された人々は、重罪に処せられた者を除いてその大勢が赦免となった。絵島は、江戸時代から今日にいたるまで「絵島生島」と呼ばれて芝居や映画で演じられてきたが、実際にはこの恋は存在しなかったと考えられている。高遠藩は幕府に対して再三絵島の赦免要請をしたが、最後まで許されることなく、絵島は幽閉地の高遠で没した。派閥抗争の中での評定に「江戸の粋な計らい」はなかったのである。高遠の内藤家が尾張徳川家と親しかったことが、絵島を押し付ける原因になったと思われるが、厄介極まりない預かり人に対して、高遠藩が示したやさしい心遣いがせめてもの慰めである。
 現在、伊那市立高遠町歴史博物館に併設されて絵島が起居した「囲み屋敷」が建っている。 この囲み屋敷は残存した原図により、ほぼ同じ位置に昭和42年(1967年)に復元されたものである。あまりのささやかさに胸痛むものがある。また三宅村と高遠町とは、絵島と生島新五郎との縁で、昭和45年(1970年)に友好町村盟約を締結。例年、9月には生島が流された東京都三宅村の関係者も参列して蓮華寺の墓前で絵島の法要が営まれているという。
向う谷 陽かげるはやし この山に 絵島は生きの 心耐へにし    今井邦子
物語 まぼろしなりし わが絵島 墓よやかたよ 今うつつな里    有島生馬
 江戸の街に咲き高遠の山里に散った希代の女人の生涯であった。
/ ・・・・・・ 遥か彼方から絵島の声が聞こえてきた。
 ・・・・・ もろびとは私のことを不運な哀しき女人とお思いになられるかもしれませんが、私は少しもそうは思っておりませぬ ・・・ 世を渡る恨み辛み、その怨嗟ともどもくるめて小さき一身に背負って黄泉に旅立つことの喜びこれに勝るものはござりませぬ ・・・ かって西行さまが願われましたように、花の下にて春死ぬる望外の幸せに今は胸を高鳴らせているほどでございまする ・・・・・
願わくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃    西行
 ・・・・・ これもまた西行さまのお歌でございますが、配流の庵で私はけして寂しくなどございませなんだ ・・・ さまざまなお方様と朝な夕な、いつ果てるともなく語らいつづけていたのでございまする ・・・・・
寂しさに 堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ 冬の山里    西行
 西行の歌のように絵島は山里の庵でひとり寂しさに堪え、紅に染まる高遠小彼岸桜が満開に咲く花曇りの空に勇躍して旅立っていったのである。時は寛保元年(1741年)4月10日、齢61歳の春爛漫であった。
 たたずむ絵島の墓所にも夕刻がせまっていた。先ほどまで絵島の面立ちを茜色に照らしていた黄昏の斜光も今はない。だが孤高の女人の表情に微塵も揺るぎはない。ただ黙して遥か遠く江戸の天際を見つめているのみである。気高きその姿に手を合わせた私は暮れなずむ蓮華寺の斜面を山裾に向かってゆっくりと降りていった。
※)絵島生島事件の顛末、絵島の生い立ち、配流先での生活等々の記述は幾つかの資料から筆者の意図によって適宜取捨選択して構成したものである。
「遥かなり絵島(2)〜山上の楽土を夢見て」(第876回)へ
「遥かなり絵島(3)〜ドラマ「忠臣蔵の恋」に想う」(第1005回)へ

付記、高遠に思う
 以下2編の小文は時に応じて高遠城趾を訪れた際に書かれたものである。直接に絵島と関係するものではないが、物語の背景が投影されているように思う。
春宵考
 春爛漫、長く寒い冬が過ぎ去り、桜の花が一斉に狂ったように咲きこぼれる宵、「春宵」の季節がやって来た。春宵は、「古代と現代」、あるいは「生と死」が、エマルジョン(混交)しているようなミステリアスで、幻想的な、異次元空間である。

 それは、数学者、岡潔(1901〜1978)の随筆「春宵十話」に、また日本画家、東山魁夷(1908〜1999)、加山又造(1927〜2004)、近くは中島千波(1945〜)の描いた春宵(満開の夜桜に浮かぶ、霞がかったおぼろ月の淡い光)等に直観される「時空が断裂」した不可思議な風景である。

 切り口は異なるが、坂口安吾(1906〜1955)の小説に「桜の森の満開の下」がある。その冒頭・・大昔は、人は桜の花の下を怖ろしいと感じ、その下を通る人間は気が変になって一目散に逃げていくのだと・・。(ひとひとりいない桜の森の満開の下には得たいの知れない夜叉が棲息しているのである)

 また逆に、旅に生きた孤高の歌人、西行は「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃(続古今和歌集)」と満開の桜の下で死を迎えたいと歌に詠んでいる。

 春宵とは単なる花見酒に酔いしれるだけの空間ではけしてないようである・・・。
(2005年4月 / 知的冒険エッセイ 第550回)
時の宿命
 春の桜で有名な高遠であるが、晩秋の紅葉もいい。小雨交じりの日であったが、行く秋を惜しむがごとくの鮮やかなもみじ葉であった。信州伊那谷の山懐に囲まれた高遠は世の喧噪から隔絶されたように静かな町である。しかし、歴史を振り返るとき、そこには数々のエピソードが秘められている特異な時空間である。

 戦国末期、武田の支城であった高遠城は数万に及ぶ織田軍に囲まれ落城した。先軍の将は信長の長男、信忠であり、信長、光秀らの本軍もまた「この高遠」を通過し、諏訪、甲府に向かい、ついに天目山に武田勝頼を追いつめ、武田家を滅亡させるにいたるのであるが・・・その後、数ヶ月して起きた「本能寺の変」で、信忠、信長、光秀らもまた、この世の人でなくなるとは本人たちも、よもや「この時」は思わなかったにちがいない。

 また世で言う「絵島生島事件」で有名な大奥女中の絵島が流されたのも「ここ高遠」であり、幽閉されていた「囲み屋敷」が復元されて高遠町立歴史博物館の敷地内にある。

 さらに徳川二代将軍秀忠の妾腹の子、保科正之は「ここ高遠」で育ち、後に会津藩の創始者となり、実の兄、将軍家光を支え幕政改革にその才を発揮した。その会津藩、最後の藩主松平容保は、維新回天の時代の中で、滅び行く徳川幕府をひとり支え、京では京都守護職として「新撰組」を率い、転じて会津では「白虎隊」を率い、最後の最後まで壮絶な戦いを貫徹した。

 これらを俯瞰するとき、すべての事の縁は、「ここ高遠」に始まる観がある・・・そして、それはまた高遠という空間が背負った「時の宿命」なのかもしれない。
(2008年11月 / 信州つれづれ紀行 第026回)

2015.01.03


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