Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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時は流れず、再び
 第639回「アキレスと亀」で、私は哲学的な視点から以下のように書いた。
アキレスと亀
 今は亡き反骨の哲学者、大森荘蔵(1921年〜1997年)は、我々が日常的に考えている「過去」・「現在」・「未来」と並べられた「線形時間」は存在しないことをあきらかにした。存在しない線形時間を存在するとしたために、「時間は過去→現在→未来と流れる(経過する)」という考え方が生まれたのである。なかんずく現在は「運動を伴った」、過去、未来とは本質的に異なる特殊な空間であって、線形時間とは「運動を伴わない」静的な時間概念でしかない。さらに、線形時間が存在しないことは「運動の軌跡が存在しない」ことであり、「アキレスと亀のパラドックスは、運動を伴わない静的な線形時間と運動を結びつけたことが原因であり、存在しない運動軌跡を時空に思い描いたことによる」と簡潔にして明瞭に証明してみせたのである。しかして大森最期の著作は、他界する前年に完成した「時は流れず」であった。

※アキレスと亀のパラドックスとは
 紀元前5世紀、ギリシャの哲学者、ゼノンが提唱した運動の不可思議に関するパラドックスであり、足の速いアキレスはどんなに頑張って走っても、自分より先に出発した鈍足の亀に追いつくことができないというもの。なぜならアキレスが亀が今いる所まで辿り着いた時、亀はそれより少し先まで行っている。アキレスがその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている。アキレスがその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている。アキレスがその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている・・・ということで、アキレスは永久に亀に追いつけないのである。
2006.3.09
 第663回、第664回の「風景の物語」で、私は心理学的な視点から以下のように書いた。
風景の物語 1
 ここ数年というもの映像表示技術の研究に関連した撮影で信州のあちこちを訪ね歩いている。自然が偉大で素晴らしいのは「変わらないこと」である。かって訪れた高原を、湖を、森を、川を、数年経て再び訪れても、何も変わらずにそこにある。「変わる」のは訪れる私のほうで、その時々の状況(心情)で、それらの自然がさまざまに変わって見える。その証拠に、撮影した日付を記載しなければ、撮影した私をのぞいて、切り取られた「自然の時系列」を誰も判定できない。

 撮影された映像は「信州つれづれ紀行」と題してホームページに掲載されているが、かく考えればその風景の物語とは、あるいは「私自身の物語」なのかもしれない。
2011.9.05
風景の物語 2
 撮影した自然風景を日付を記載しない限り、撮影した私をのぞいて、誰も時系列を判定できないということはいかなることなのか。

 私の解答は「自然そのものには時間は存在せず、人間の内にのみ時間が存在する」というものである。以下簡潔に説明すると・・「過去は記憶」で構成され、「未来は想像」で構成される。どちらもはなはだ曖昧模糊とした人間の「主観的な意識作用」である。だが「現在は運動」という確固たる「客観的な物理作用」で構成されている。
 我々は線形時間の流れとして「過去・現在・未来」を配列し、時間は過去から未来に向かって流れていると考えている(思っている)が、現在はその構成において過去や未来とはまったく異なる。それを同列に配置するのは人間の意識作用のなせる業であって、それ以外には何も根拠がない。
 つまり、時間は人間の主観的意識場においては、流れていることが保証されるが、現在のような客観的物質場においては、流れているのかどうかは保証されない。私は過去や未来は線形に配列されるものではなく「現在に含まれている」のではないかと考えている。
 以上から考えれば「風景の物語」とは、私がその現在場を訪れたことで、自然風景の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで発生した内なる時間の流れが紡いだ「私自身の物語」である。他方、私をとりまく自然には「時間は存在せず(流れず)」、運動する風景として、ただそこに存在しているのである。

 ※)「ペアポール宇宙モデル」の構築にあたっては “ ひも状物質 ” の項で 「・・・時間の流れ(速度)は、人間の意識波の波動速度と同一で、それは光速度であり・・この宇宙にひとたび現れたものは永遠に存在する・・・」 としたが、そのよりどころを、このような日常生活の断象としてかいま見ることができる。
2011.9.06
 第667回「時は流れず」で、私は科学的な視点から以下のように書いた。
時は流れず
 以下の方程式は周知のアインシュタインが構築した物質がもつエネルギ式であり、別名「悪魔の方程式」と呼ばれる。それはこの数式が原子爆弾製造の基本原理となったがゆえであるが、平和利用を掲げてスタートした原子力発電が、3.11東北大震災に起因した福島原子力発電所の事故により未曾有の放射能汚染をもたらし、周辺住民に塗炭の苦しみを強いている日本の現状をみると、その悪名はさらに増したようにさえ思える。

                                   E:エネルギ
                   E=mc2              m:質量 (重さ)
                                     c:光速度 (30万km/s)

 この式の意味するところは宇宙に存在する物質は、その質量(重さ)に光速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。原子力ではこのエネルギのことを一般に「核エネルギ」と呼んでいる。


 以下の方程式はニュートンが構築した運動物体がもつエネルギ式であり、一般に「運動方程式」と呼ばれる。

                                   E:エネルギ
                   E=1/2mv2           m:質量 (重さ)
                                     v:運動物体の速度

 この式の意味するところは宇宙で運動する物体(物質)は、その質量(重さ)に運動速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。 (1/2は係数)


 2つの数式が意味するものとは何であろう・・?

 まず方程式が述べる論理を比較すると以下のようになる。

  アインシュタイン方程式での主題は「宇宙に存在する物質」であり、ニュートン方程式での主題は「宇宙で運動する物質」である。違いは「存在する」と「運動する」である。
 アインシュタイン方程式でのエネルギ算出は「光速度の 2乗を掛ける」であり、ニュートン方程式でのエネルギ算出は「運動速度の 2乗を掛ける」である。

 次に、以上の論理に「等価原理を適用」するとアインシュタイン方程式は以下のように変換される。

    「宇宙に存在する物質は光速度で運動しており、その運動エネルギは mc2 である」

 この変換結果が示すものは、この宇宙に存在する物質は「光速度で運動している」という驚くべき宇宙風景である。仮に宇宙を大きな「宇宙船」と考えれば、我々はその宇宙船に乗って、いずれの方向かは不明であるが「光速度で飛行している」のである。

 さらに重大なことは、アインシュタインの相対性理論が正しければ、物体の速度が光速に近づくにつれて時間はゆっくり進み、光速に達すると「時間は停止」することになる。つまり、我々の乗った宇宙船は光速度で飛行しているわけであるから、「宇宙船内の時間は停止している」ことになる。

 以上の思考結果は、知的冒険エッセイ 第 666回 「ニュートリノは光速を超えたのか?」 で登場した哲学者、大森荘蔵の「時は流れず」を裏打ちするし、私が提示した、時間は人間の内なる意識世界には存在する(保証される)が、「外なる宇宙自然界には存在しない(保証されない)」こと、さらに時間の流れとは、人間の意識波の波動速度であって、それは光速度であるとした「Pairpole 宇宙モデル」の帰結に大きな力を与えてくれる。

 以下、蛇足ながら付け加えると、光速度飛行している宇宙船に乗っている我々にスピード感がないのは、宇宙船の移動が「等速度運動」のためである。ニュートンの運動方程式では、物体は外部から力を加えない限り、静止を続けるか、等速度運動を続けることを規定している。力を加えると物体に加速度が生じ、物体は加速するか、減速する。我々が感じるスピード感とはこの加速度であって、加速度がない「等速度運動」とは、本質的には「静止状態」と変わりがない。ただ異なるのは等速度運動を続ける物体(ここでは宇宙船)は運動エネルギをもっていることである。その運動エネルギは「慣性エネルギ」と呼ばれる。物質がもつエネルギ「E=mc2」はまたこの慣性エネルギでもある。その莫大な大きさを、我々は一般に物質がもつ「核エネルギ」として、原子爆弾の爆発力をもって実感しているが、物質がもつ「慣性エネルギ」として、例えば重さ 1kgの石を、光速度 30万km / s (1秒間で地球 7回半する速度)で壁に衝突させた破壊力をもって実感することができる。
 さらに我々の乗る宇宙船(宇宙)が等速度運動を続けることは宇宙船(宇宙)には外部から力が作用していないことを物語っている。同様に物理学で最も基本的な法則とされる「エネルギ保存則」が宇宙船(宇宙)の内部で成立することは宇宙船(宇宙)には外部からエネルギが作用していないことを物語っている。

 いうなれば我々が搭乗している宇宙船(宇宙)は孤立無援で飛行しているのである。
2011.10.03
 第708回「時間とは何か?」で、私は神学的な視点から以下のように書いた。
時間とは何か?
 カトリック神学の祖、聖アウグスティヌス(354〜430)はその著書「告白録」の中で「世界(宇宙)の創造の前に神は何をしていたか」という疑問に取り組んでいる。

 「もしも神にすることがなくて、何もしていなかったのだとしたら、いったいなぜ、それまでずっと何もしていなかったのと同じように、何もしない状態を永久に続けなかったのか?」

 この疑問に答えをだすためにはまず「時間とは何であるか」を理解しなければならないと考えたアウグスティヌスは、明瞭な分析を通して「時間は何かの動きを通じてのみ定義できること、したがって世界よりも以前には時間は存在できない」という理解に至った。

 アウグスティヌスの最終結論とは以下のようなものであった。

 「世界は時間の中で創造されたのではなく、時間とともに創造されたのであって、世界よりも以前に時間があったのではない」

 つまり、世界の創造の前に神が何をしていたのかを問うことは無意味であって、時間がなければ「そのとき」もまた存在しないのである。

 私が安曇野の中学校で行った講演「宇宙の構造とメカニズム」の中で子供たちに語った時間については講演録「物質が空間と時間を発生させる」に記載されていて、アウグスティヌスとよく似た論理構成をもっている。

 以下は講演後に寄せられた中学1年生のK君からの便り(抜粋)である。
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 今日の、柳沢先生の講演は、とても興味深く、おもしろいものでした。特に、「宇宙の果てはどうなっているのか」「時間の始まりと終わりはいつなのか」という部分です。
 ぼくも何度かそのことについて考えてきました。でもそのたびにわけがわからなくなったり、怖くなったりしました。柳沢先生もそうだと聞き、みんなそうなるのだと感じました。
 そして、今まで考えられなかったことまで先生に教えてもらうことができました。それが、物体が増えることで、空間、そして時間が生まれるということです。このことにも感動しました。

 真っ暗な世界に1人でいる自分の数メートル前方に何か物体が現われるのが頭に浮かんできました。このイメージをずっと覚えていようと思いました。
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 末尾のK君の思いは聖アウグスティヌスと等価同質の思いであり、私はその研ぎ澄まされた感受性にほとほと驚かされるとともに、未来を拓く科学者の素質をかいま見た気がした。日本の未来はそう暗くはないのである。
2013.01.17
 第810回「あの道がこの道であること」で、私は文学的な視点から以下のように書いた。
あの道がこの道であること
 「詩人とは(第780回)」の中で述べた「あの道がこの道であることが私を苦しくさせる」という詩人、立原道造の言葉は、「思い出」というものの本質を見事に貫いている。

 あの道にあって、この道にないものとは「あの時間」である。あの道にあったものとは過去となった「あの時間」であり、それは現在のこの道にはない。現在にあるものは現在にある「この時間」である。

 道造のこころを苦しくさせているものとは「二度と再びあの時間にもどれない」という時間がもつ絶対的非可逆性に対する嘆きである。後悔先は先には立たないのであり、覆水は決して盆にはもどらないのである。

 ではあの道にあった物理的条件(天候や環境条件等)をこの道の物理的条件として完璧に再現した場合はどうであろう。違いはあの時とこの時という時間のみである。だがそれは意識としての時間であって、意識を消滅させれば「あの道」は「この道」と同じである。それがゆえに道造は救いの道を「忘却」に求めたのである。つまり、忘却とは意識を消滅させることに他ならない。だが感受性に優れた道造であってみれば、いくら忘却を求めたところで意識ある身をもってしては、それは不可能なことであったであろう。

 物理学的な「時空間」とは時間と空間という2つの要素によって構成された宇宙である。しかして、Aという時空間と、Bという時空間の同一性は、この2つの要素の一致をもって保証されるのであるが、「時間の始まりと終わり」や「宇宙の果て(空間の果て)」という時間と空間にまつわる根源的な疑問に対する明確な解答をもっていない我々人間にしてみれば、あの時間とこの時間が同じであること、あの空間とこの空間が同じであることを、どのように保証できるのであろう。まして「時は流れず」と考えている私とすれば、あの道とこの道の違いは、時間の違いではなく、意識の違いと考えることに妥当性を覚える。

 つまり、あの道にあったものとは「あの意識」であり、この道にあるものとは「この意識」なのである。私はこのような「意識のめぐり逢い」を名付けて「時空のめぐり逢い」と呼んでいる。

 道造は苦しくはあったが、かくなる時空のめぐり逢いの中から、不思議に透明で、夢のように甘美な、純粋詩を紡ぎだし、時代を駆け抜けていったのである。「いつかどこかで」という「のちの思い」を画したつぶやきをのこして・・・。

2014.06.03

そして今
 そして今、私は「時は流れず、未来や過去は現在に含まれている」と考えている。現在に含まれている「想像としての未来」や「記憶としての過去」が事象に応じて、今の今と言われる刹那の世界に現れるのである。時の流れを見た人などいないのであるから「そう考えても」何ら不都合は発生しない。

 かって、時は「物事が起きる順番である」と考えた頃もあった。その根拠は「物事が一度に起きたら人間として対応不能に陥ってしまう」からである。つまり「時は事象のパラメータ」として人間が考案したものであると考えたのである。

 だが人間以外の生物はおそらく「時が流れる」などとは考えてはいないであろう。彼らにとっては「世界はただ存在する」だけであって、あらゆる事象は「疑いのない必然」であろう。それからすれば「未来や過去は現在に含まれている」などという考えもまた、人間独自の詭弁に逸してしまう。

2014.09.13


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