未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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科学的宇宙と哲学的宇宙
私は著作「Pairpole(物質編)」で「物そのもの」という科学的方法論で記述した「宇宙モデル」の構築を試みた。構築された宇宙モデルは、同じ構造が入れ子状に階層を成し無限に連続する「フラクタル構造宇宙」であり、その構造法則は「宇宙には大きさが無く仕組みだけしかない」という直観的覚醒を私にもたらした。
それはまた、子供の頃から抱いてきた「宇宙の果て」に対する疑問の終焉でもあったが、それとともに、「物そのもの」という大きさ概念をもつ物質が大きさ概念をもたない無の中に消滅してしまったのである。 これらの帰結は、私に次のような疑問を与えた。
1.「大きさが無く仕組みだけの宇宙」とは唯識世界を意味するのか ・・?
2.唯物世界とは、実は唯識世界の影なのか ・・?
3.そもそも私の唯識的意識とは何か ・・?
4.物質に意識が宿るのか ・・? それとも、意識に物質が宿るのか ・・?
これらの疑問の解を求めて、この稿はここまで思索探求してきたのであるが、ここまでの思索探求で見えてきたものは、「物そのものである唯物世界」で妥当性をもつさまざまな科学的方法論の理は、そのまま「意識そのものである唯識世界」でもまったく同様に妥当性をもつという「理の同期性」である。
この同期性はいったい何を意味するのか ・・?
また、そもそも「意識そのものである唯識世界」を思索探求する私の意識とは、いったい何処に位置するのか ・・? 神のごとく、この「宇宙の外側」に存在し、観察しているのか ・・? それともその探求されるべき「宇宙の内側」に存在し、観察しているのか ・・?
後者の構図は、自分の意識を観察するに、自分の意識を使用して行うようなジレンマに陥る。つまり、自分の頭脳を使って、自分の頭脳の何たるかを探求するようなものである。いにしえの哲人が言った「汝、自身を知れ」とは、実はかなり難しい構図をもっている。
宇宙の外側から観察する姿勢とは「科学者」のものであり、宇宙の内側から観察する姿勢は「哲学者」のものである。
宇宙の外側に位置する科学者の観察はすべて「決定論的」であり、明快であるのはこのジレンマの構図がないためである。しかし、宇宙の内側に位置する哲学者の観察はすべてこのジレンマの構図のために「懐疑論的」であり、難解なものとなる。
だがここに至って、宇宙の外側に位置する科学的観察も「量子論の登場」により、大きな壁にぶつかってしまった。それは前述したごとく、「観測問題」と呼ばれる人間意識の要素が科学的方法論の中に介在してきたからである。現在の最先端物理学は、今や哲学的、心理学的な要素を援用しなければ語れなくなっている。
この状況は必然の帰結でもある。なぜなら科学者も哲学者も心理学者も、ともにこの「我々の宇宙」という同じ山の頂きを目指して登っている以上、やがて、その異なる個々の登山道はひとつに合流せざるを得ないのである。
宇宙の「フラクタル構造」からすれば、そのフラクタル階層のひとつの宇宙(空間)に私の意識が位置している。また同時に、「細部は全体であり、全体は細部である」というフラクタル構造の理からすれば、私の意識はまた、そのフラクタル階層のすべての宇宙(空間)に位置していることにもなる。
以上をまとめると、この稿が目指す「無の探求」を先に進めるためには、宇宙の外側からと内側からの両方向から同時に為されなければならないことになる。
仏教哲学で最も難解とされる「唯識論」では、意識を眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識(マナ識:自我意識)、阿頼耶識(アーラヤ識:すべての意識の根本)の八識に区分けされ、一般に人間は「阿頼耶識」には至れないとされている。
宇宙の外側と内側の両方に位置し、すべてを観察することができる意識があるとすれば、その意識は、人間には至れないとするこの「阿頼耶識」に近いものとなる。
文 /
柳沢 健
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