未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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人間の証明
人間がこの現実という実空間において、化石にも幽霊にもならずに存在しようとするならば、人間は身の回りに存在するあらゆる存在に作用をほどこさなくてはならない。その作用には必ず反作用が発生し、さらにその反作用によって生じた実空間の万物事象に、新たな作用をほどこす。
この「作用の継続」こそが、人間がこの実空間で化石でも幽霊でもないものとして存在できる唯一の保証を与える。
人間によって為されるこの作用と反作用の継続状態を、一般に世間では「生活する」と表現する。
継続する作用と反作用の循環は1回ごとに少しづつ異なる開かれた螺旋円の循環であり、「前進する循環」である。この前進する作用と反作用の開かれた螺旋円の循環は「時間の矢」を発生させ、時間が過去から未来に進んでいると我々に感じさせる根拠を与える。我々が未来から過去へ逆戻りしないと感ずるのは、この作用と反作用の逆循環がないことに起因する。この世では、反作用が先で、作用が後ということはないのである。
しかし、映画のビデオテープや、音楽のカセットテープの最初と最後を繋げ「エンドレステープ」として、見たり、聞いたりした場合はいかなることになるのか ・・? 時間の経過とともに、その映画や音楽の最初と最後が、いつしか「判別不能」とはならないか ・・? すべての「箇所」が最初であり、また最後であるという状況である。
この状態で作用と反作用の循環を考えれば、作用が先で、反作用が後とは、必ずしも言えなくなる。映画で言えば、物語の結末(反作用)が、物語の始まり(作用)のように考えても違和感がない。これはまた我々が絶対視する「因果律の破綻」でもあり、原因から結果が発生するのではなく、結果から原因が発生する状況である。
これは作用と反作用の循環が「閉ざされた円循環」となっている状況であり、インド仏教哲学や、西欧の哲学者、ニーチェが提唱した「永劫回帰説」は、このような閉ざされた円循環の宇宙観である。
円循環の宇宙観では、時間は「前進」するのではなく、「繰り返す」のである。現在から未来に向かえば、過去に至り、その過去を経由して再び現在に戻る。また現在から過去に向かえば、未来に至り、その未来を経由して再び現在に戻る。過去と未来の区別はどこにもなく、また進歩も退歩もない。ただ単に「エンドレステープ」のように、無限に同じことを繰り返すのみである。
しかし、波動理論を構築した物理学者、シュレジンガーは、繰り返される意識はやがて無意識下に去り、時空の闇に埋没することを述べた。幾度となく繰り返される慣れ親しんだ通勤経路での車の運転操作は、やがて無意識でも可能となり、よほど暇でもないかぎり心臓の鼓動や、呼吸の回数などを意識する人はいない。だが、この通勤経路や、鼓動や、呼吸に「変化が顕れた」とたんに、意識が顕れる。これらの状況を考察すると、意識とは「変化」を察知する能力であることがわかる。
従って、我々が生きていると感ずるのは、作用と反作用の少しづつ異なる(変化する)循環、「開かれた螺旋円循環」である。もしインド仏教哲学や、ニーチェの永劫回帰説のような変化しない循環、「閉ざされた円循環」であれば、人間意識はシュレジンガーが言うごとく、いつしか無意識下に埋没し、象出した実空間そのものも、消滅してしまうであろう。
この変化する作用と反作用の循環こそ、現代理論物理学の基礎を構成する「量子論」が述べる「観測問題」を意味する。
量子論から導かれたシュレジンガーの波動方程式では、観測により波動関数が収縮し、「ひとつの宇宙」が象出することを述べている。観測が為されるまで、宇宙は無限の可能性を秘めて霞みのごとく広がっているが、観測が為された瞬間、宇宙はその観測に応じた「たったひとつの宇宙」に収縮するのである。
例えて言えば、私がある人から観測されないかぎり、そのある人から見た私は松本市の全域に霞のごとく広がっている状態であり、松本市のいかなる所にも存在し、またいかなる所にも存在しない状態であり、そのある人が私を松本駅前で観測した瞬間、すべての可能性は消え、たったひとつ、つまり、松本駅前に私が存在する宇宙に収縮するのである。
この波動方程式の波動関数の収縮は「ネズミの観測」や、「酔っぱらいの観測」では起きないことは重要である。この収縮が起きるのは「意識的観測」のみであり、ネズミの意識や、酔っぱらいの意識では宇宙は収縮しないのである。
このように、最先端理論物理学、量子論の解釈に依れば、我々が現実とする実空間の存在の保証は、「意識的観測問題」という、はなはだ「人間的な問題」に帰着する。量子論の帰結は、まさに「この宇宙が人間意識により発生する」ことを述べているのである。
しからば、人間の存在とは何かとなる ・・?
覚醒せる人間意識の観測のみが、あらゆる可能性の海であるカオス状態(混沌)の中から、「あるひとつの宇宙を出現させる」のであり、もし覚醒せる人間意識が存在しなければ、この宇宙は霞のごとき混沌状態のままに保たれ、このような現実は存在しないことになる。
意識的な作用と反作用の少しづつ異なる(変化する)循環、「開かれた螺旋円循環」こそが、この「意識的観測の継続」を意味し、それはまた、次々と「ある宇宙(ある現実)を出現させる」ことを意味するのである。
化石でも幽霊でもない人間の意味とは、「ここ」に存在するのであり、それがまた「人間の証明」なのである。
文 /
柳沢 健
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