小説「暁光」を書きおいてからすでに25年余の歳月が経過した。今や時代は21世紀を迎え、貧困の中から立ち上がった20世紀近代日本の歴史は過去の物語になろうとしている。暁光の舞台はようようにして豊かさを手にし始めた頃、そんな日本の片隅にあった世界である。
かくして日本は豊かさを手に入れ、人々は幸福になる予定であった。しかしながら追求した機能的効率性は都市をコンクリートと金属とプラスチックの集合体と化し、林立するビルの狭間を昼夜を分かたぬ喧噪で満たし、町をプレハブ住宅の群生と化し、コンビニの灯は24時間消えることがない。また追求した物質的利便性は人々を金銭の奴隷に貶め、幸福なる生活とは豊饒なる生活であるとする錯誤転倒へと導いた。昭和元禄と呼ばれたバブル経済の出現と熱狂は札束を空中に乱舞させ、ひとときの栄華の宴で日本列島を狂奔させるに至ったのである。
哀れむは人の世の性(さが)、いつしか日本の伝統であった臥薪嘗胆の矜持や深き人情を麗しい風景とともに時空の彼方に忘却してしまった。一夜の夢から醒めてみればそこにあったものは祭りのあとの空漠たる風景である。化粧が落剥した祭り道化の顔には目的を見失った空白感と虚脱感が色濃く漂い、敗戦の混迷から復興を支えた団塊の世代の肩には今や老残が影を落としている。自信と誇りを喪失した無気力日本経済には否応なく世界の経済が襲いかかり、グローバルスタンダードへの構造改革の嵐は情け容赦なくかっての功労者をも社会の裏側に捨て去ろうとする。
我々はいったいここで「何を達成した」というのであろうか。爪で米粒を拾うがごとく汗と涙の刻苦で築き上げた繁栄社会の現実がこのようなものとは・・・茫然自失、明日に向かって立ち尽くすのみである。
未だ貧しかった頃、そこにあったものは厚き人情、深き思い、潤いに満ちた日常であった。雑踏の街にはフォークソングが流れる喫茶店があり、小皿をたたいて歌うはやり歌がもれ聞こえる居酒屋があり、威勢のいい切り口上をにぎやかな笑い声が包む露天商があった。閑寂の村にはおぼろ月夜に霞む菜の花の春が、紺碧の空に沸く雄壮な積乱雲の夏が、結実の山を絢爛たる紅葉で染める秋が、寂寞の枯野を白銀で装う雪原の冬があった。そんな時空の風物詩の流れの中で、かって我々は興隆日本を夢みて日々懸命に生きていたのである。今となればひどく懐かしい記憶の断章となってしまった。
古人曰く、「歳月は旅人にて、日々旅を住みかとす」。歳月の旅に終わりなく、また不足の事態はいつの旅にもつきものであろう。今再び、我々は「失われた世界」を求めて歳月の旅路を先に進めなければならない。その旅程に速すぎることも遅すぎることもないのである。
世相混沌をきわめる巷間、この小説「暁光」がそんな旅の「道しるべ」になってくれればいいのだが・・・。
平成13年2月10日 著者