Linear
未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

信州つれづれ紀行 / 時空の旅
Linear

海望公園〜奴奈川神社 / 新潟県糸魚川市
再びの奴奈川姫
 奴奈川姫を求めて再び日本海を望む糸魚川を訪れた。
 前回訪れたのは2016年5月のことであったが、その時は奴奈川姫のことよりも伊那市長谷村の「中央構造線公園 溝口露頭」を訪れたことに促されてフォッサマグナの北端である糸魚川ジオパークをこの目で確かめることが目的であった。
 奴奈川姫にはヒスイ海岸で偶然に出逢った。
 私論「安曇古代史仮説〜安曇野の点と線」に登場した諏訪大社の祭神、大国主尊の息子、建御名方命の母が奴奈川姫であることはこのときに知ったことである。その経緯は知的冒険エッセイ「奴奈川姫伝説(第937回)」に詳しい。
 今回は前回には割愛した奴奈川姫と建御名方命の母子像が立つ「海望公園」と奴奈川姫が祀られている「奴奈川神社」を訪れた。
 以下の記載は奴奈川神社に遺る奴奈川姫伝記からの抜粋である。
 奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。
 姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。
 長野県北安曇郡此小谷村に中又と呼ぶところあり、ここにて奴奈川姫命、建御名方神、奴奈川姫二柱なり。
 姫川の上流姫ヶ淵の付近にコウカイ原と云ふところあり、ここにて奴奈川姫命その御子建御名方神と別れたまひしところなりと。
 以下の記載は北安曇郡郷土誌稿に遺る奴奈川姫伝記からの抜粋である。
 北小谷村戸土(とど)区戸土神社の横手に山王池がある。諏訪明神御出生の砌(みぎり)、此の池の水を用ひて産湯になされたと云ひ伝へてゐる。尚この池の水は越後の根知村山寺の山王神社の御手洗水に通じてゐるとも云はれてゐる。
 北城(ほくじょう)村字大出(おおいで)の地籍に属する姫川の中程に、姫淵(ひめがふち)といふ深い淵がある。大昔沼川姫の御入水の淵だと言はれてゐる。姫淵も姫川もこのことから名づけられたのだ。尚姫は入水に当つて一子を残された。その御方が諏訪大明神だ。
 上記の伝記の記述を知ってか知らずか海望公園に立つ母子像の作者は奴奈川姫を体躯強壮にしてたくましい女性として描いている。伝記された運命を背負って生きた奴奈川姫の風景が彷彿として浮かんでくるようである。大国主尊と奴奈川姫の麗しきロマンスはどうやら後世において脚色された物語のようである。実のところは姫川源流に産するヒスイにまつわる利権争奪の顛末を語っているのではなかったか? 奴奈川姫伝説とは、その争いに翻弄された哀しき女人の悲話であったのかもしれない。

2017.07


copyright © Squarenet