Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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何も考えない〜止観への道
 想像と現実をこの身に一体化する 「即身の極意」 は 「何も考えないこと」 にある。 「大いなる秘術」 とは、そのための工夫である。 人間は有史以来、考え続けてきた。 その結果として現代社会がかくこのように存在しているのである。 考えることは人間にとっては 「最大の武器」 であるとともに、また 「最大の凶器」 でもある。 武器は身を守るためのものであるが、凶器は自らを傷つけるためのものである。 武器であり凶器でもあるという 2面性 こそが 「考えることの特異性」 である。 しかして、その武器と凶器の狭間をいかに制御するかが 「万物の霊長」 と尊称される人間に託された天命なのである。 しかしながら現代社会の様相をつぶさに鑑みれば 「考えることの凶器」 が 「考えることの武器」 を凌駕しつつあることが観えてくる。 これを放置すれば、やがては人間自らが自らを滅ぼしてしまうであろう。 それを予知したがゆえに空海は考えることを停止させ 「仏として生きる」 という即身への道を決断したのであろう。 「止観」 とはそのための工夫である。 「考えない工夫をしなさい」 とは科学的合理性に支配された現代人にとってみれば 「はなはだ馬鹿げたこと」 に感じられることであろう。 だが混迷を極めた現代社会を正常に戻すためにはこの馬鹿げた方法に頼るしか他に方法がないのである。 空海の生涯を代表する大作となった 「秘密曼荼羅十住心論」 を自ら要約した 「秘蔵宝鑰」 の序文の最終行に配された 「太始と太終の闇」 と題した偈はそれに気づかない人間の愚かさを暗示しているかのようである。
三界の狂人は 狂せることを知らず
四生の盲者は 盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終わりに冥し
 そう想って読み返すと胸に落ちるものがある。 空海の 「即身の道」 は科学的合理性で思考が拘束されている常識人にとって納得することは至難の業である。 何の根拠も無しに想像と現実が一体化していることを信じなさいと言われて 「はいそうですか」 と納得する人は希なる者であろう。 だがそれを超えるところに 「密教の奥義」 がある。 空海にしても科学的合理性にまったく無知であったわけではない。 史実は優秀な土木技術者であり、建築家であり、能書家であり、芸術家であり ・・ あらゆる技芸に通じていたことを伝えている。 その空海にして 「即身を説いた」 のである。 「なぜ」 を考えなかったはずはない。 何らかの方法をもってその 「なぜを超越」 したのである。 その方法こそが真言密教の 「極意(大いなる秘術)」 なのであろうが、空海滅後 1200年に至ろうとする今も尚、それを 「かくある」 と衆に啓示できる大師は現れていない。 空海の前に空海なく、空海の後に空海なし、ということであろう。
 即身の極意である 「何も考えない」 という心の働きから 「何もしない」 という身の働きが導かれることは必然の流れである。 「心身合一」 を標榜する即身の主旨からすれば、陽明学の祖、王陽明が標榜した 「知行合一」 に一致することもまた 「理の当然」 であろう。 即身に至る道は心の内で 「何も考えない」 ことに徹するだけでなく、身の外で 「何もしない」 ことに徹することが車の両輪のごとく肝要となる。 「何も考えない何もしない」 では現代人からすればさらに馬鹿げたことに感じられて 「もはや思考は停止する」 であろう。 だがそれこそが 「止観の神髄」 でもある。
 進化する頭脳をもった人間にとって 「想像と現実をこの身に一体化する」 ことには工夫がいる。 編集工学という分野を創始した松岡正剛はその著 「空海の夢」 の中で以下のように書いている。 少し長くなるが以下に引用する。 但し、その論を理解しやすくするために若干の削除・加筆・訂正を加えていることをご了承いただきたい。 われわれの頭の中には知覚と学習とによって入力された情報が大量にたまっている。 これらの情報は 「価値の序列」 も 「時間の序列」 もあいまいで、まことにたよりない状態である。 おおざっぱな貯蔵領域は分かれているものの、やっと感覚器官との関係の混乱をふせいでいるだけである。 それは子供のおもちゃ箱のように多種多様にバラバラに入力されたままであるにすぎない。 これがヒトの脳髄の不幸であって、生物一般の不幸ではないことは、生物一般にはかなり厳密な情報入力にかんする制御性や選択性があることによる。 われわれの脳はそういう意味ではやや特殊に発達をしずぎたともいえた。 依って、われわれに入ってくる第2次的な情報系はそのままではあまり役に立たないということになる。 第1次情報系とはヒトが生物史に内属して継承してきた情報系のことをいう。 この第2次的な情報系をすこし正確にストックするには 「ゆさぶる」 ことである。 ちょっと意外かもしれないが、あるものの状態を構造として整えこれを維持しやすいようにしておくには多少ゆさぶっておくことが必要である。 簡単な例でいえば、かたまったままではなんとも形容のつかない土のかたまりも、これを箱に入れてゆさぶってみるといくつもの大小の粒子によって構成されていたことが見えてくる。 そのような 「ゆさぶり」 はひじょうに普遍的な作用をもった力であるのだが、その性質が自然界でどのような役割をもっているのかはごく最近まで知られていなかった。 「構造の維持にはエネルギの散逸が必要である」 と主張したイリヤ・プリコジヌがノーベル賞をとったのはやっと 1977年のことだった。 いわゆる 「ゆらぎ」 がにわかに注目されるようになったのはそれからである。情報にも 「ゆらぎ」 や 「ゆさぶり」 が必要であった。 第2次的な情報系はこれによって蘇生し、第3次的なノン・ローカルな序列のなかに位置づけられはじめる。 ここに情報組織ともいうべき姿がたちあらわれてくる。 ここから先の私の考えは話が長くなるので割愛するが、結論だけをいえば、情報組織はそのうちの適当な第3次的な情報系を選びながらこれを圧縮しはじめ(情報圧縮)、しだいに自己組織化をはたすというプロセスになる。 これがふだんは漠然と認識世界だとか思考世界だとかとおもいこまれている当の正体である。 しかし当の正体とはいっても、これはちょうどテレビのチャンネルを次々に早く切り換えてみたときに見える映像のようなもので、常時フラッシュのごとき断面像をみせる 「頭出し」 の部分にすぎない。 自分の認識世界であるというのに、これをゆっくり眺めるには、どこかのチャンネルを限定してつけっぱなしにし、切り換えの能力をあえていったん休止させなければならない。 おそらく 「止観」 とはこのことであったのだろう。 「直観」 とはこうした既定の情報組織のセットにたいし、ある別の第3次的な情報系に属しているシンボルがふいに介入したときに生ずる一種の断面図、わかりやすくいえば 「場面」 にもとづくものであろうとおもわれる。 ある別の第3次的な情報系とはサイ情報系というふうにも単に未知の情報とも考えられるが ・・ その強烈なシンボル群(信号)が既定の情報組織を一瞬にして組み替えてしまうところ、そこに直観の出現があった。 ふたたびテレビの例をとるとすると、各番組が一瞬ながらある必要な場面の 「ぬきあわせ」 によって新しい情報組織に変わってしまうようなものである。 むろんテレビにはそんなことはおこりそうもないが ・・ ここではとりあえず直観が新しい 「場面集(インターフェイス)」 であったことを指摘するにとどめることにする。 他方 「方法」 とは、そうして入手されたいくつかの直観世界にラショナルなネットワークをかぶせるためにつかわれる。 直観が 「場面集(インターフェイス)」 であるとするなら、方法は 「回路群(サーキット)」 である。 これが私の考える編集(エディトリアル)というものにあたっている。 依って、次なる問題は右脳に直観、左脳に方法をもって 「直観」 と 「方法」 をいかに糾合させるかである。 上記の文中、松岡は第2次的な情報系をすこし正確にストックするには 「ゆさぶることである」 と述べ、その働きがイリヤ・プリコジヌが提唱した 「散逸構造理論(自己組織化)」 であると指摘する。 それに対し私は 「散逸構造理論(自己組織化)」 について以下のように説明してきた。 イリヤ・プリゴジンはエントロピーが増大し、混沌とカオスが極限まで進行して臨界点に達すると 「自己組織化」 と呼ばれる再結晶化が起きることを発見した。 この理論により、1977年、ノーベル化学賞を受賞している。 それは生物学における 「突然変異」 のような現象である。 例えていえば、溶液にさまざまな薬品を混ぜていくうちに溶液の濁りが突然に消えて無色透明になるような現象(混沌からの秩序)である。 混乱も極まれば秩序が発生するのである。 同じ現象も別の視点で考えるとかような次第となるという好例である。 また無秩序に蓄積された情報系から直観によってある場面が象出するメカニズムはしばしば本稿でも 「直観的場面構築」 として述べてきたことであるが、松岡はその過程を巧みな表現方法をもって述べている。 これもまた 「機械メカニズムを探求」 してきた私と 「編集工学を探求」 してきた松岡との視点の違いであって本旨に差異はない。 それはまた 「真理のかたち」 で論じたことであり、その末尾で私は以下のように書いている。 「真理のかたち」 とはおよそこのようなものなのであろう。 どれもが真理の部分であって全体ではない。 真理に到達しようとすれば部分を統合しなければならない。 つまり、ディラックの予見、マヨラナの予見 ・・ 等々が統合されたとき、真理の女神は 一瞬間 こちらを振り向いて素顔でにっこりと微笑んでくれるのである。 それがいつになるのかは背を向けている女神本人に聞いてみなければわからないが、彼女の気分しだいというところが妥当な予測ではなかろうか ・・。 表現方法のあれこれはさておき、進化する頭脳をもった人間にとって 「想像と現実をこの身に一体化することには工夫がいる」 とするその工夫とは 「何か?」 である。 松岡はその課題を 「直観と方法の糾合(融合)」 に改題し、直観が 「場面集(インターフェイス)」 であるとするなら、方法は 「回路群(サーキット)」 であると指摘する。 「方法」 は入手されたいくつかの直観世界にラショナル(道理をわきまえた)なネットワークをかぶせるためにつかわれる。 それが 「編集(エディトリアル)」 であるとし、右脳に直観、左脳に方法をもって 「直観」 と 「方法」 をいかにして糾合させるかであろうと結んでいる。

2024.11.05


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