Linear ベストエッセイセレクション
真理のかたち
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消えた天才物理学者を追う
 おもしろい本を見つけたという友人からのメールで読むことになった。 あとで本人から聞いたところによれば「間違えて買ってしまった」のだという。 アマゾンネットの在庫数が彼が買ってから現在にいたるも私が買った1冊を除いて減っていないところを見ると読むには稀有なる本なのであろう。 彼に訪れた「ふとした僥倖」が私にもたらした貴重な1冊である。
 エットーレ・マヨラナ(1906年〜1938年)、イタリアの物理学者。シチリア島のカターニアに生まれで、数学的な才能にあふれ、ローマ大学のエンリコ・フェルミのチームで活躍した。1933年に核力の理論として中性子と陽子の交換力(マヨラナ力)を考えた。1937年に粒子と反粒子が同じとする「中性粒子の理論」を発表した。その中性粒子は「マヨラナ粒子」と呼ばれている。イタリアで人種法が制定され、フェルミらが公職から追放された1938年、ナポリからパレルモへ移動する船のなかで行方不明となった。自殺説、誘拐説、亡命説などがあるが真相は今なお謎につつまれている。
 内容は読んでもらうとして、私が注目したのは「無からの有の発生」についてのマヨラナの予見についてである。 無からの有の発生に関してはもっぱらポール・ディラックによって説明されてきた。
 ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック(1902年〜1984年)、イギリスの理論物理学者。量子力学及び量子電磁気学の基礎づけについて多くの貢献をした。ケンブリッジ大学のルーカス教授職を務め、最後の14年間をフロリダ州立大学の教授として過ごした。1933年にエルヴィン・シュレジンガーと共にノーベル物理学賞を受賞している。
 ディラックを中心に当時の物理学界の状況を概説すると以下のようである。
 シュレジンガーが構築した波動方程式にはひとつの限界があった。 彼自身もこれには当初から気がついていた。 それはアインシュタインの特殊相対性理論の必要条件を満たしていなかったのである。 ディラックはこの欠点に取り組み相対論的方程式を書き上げた。 この方程式から反物質である陽電子の存在が浮かびあがってきた。 陽電子は電子と同じ質量をもっているがその電荷は反対になっている。 陽電子と電子が衝突すると対消滅を起こし同時に光がほとばしる。 この説はその後、カール・アンダーソンによって実験的に陽電子の存在が確認され実証された。 これは反物質の存在証明でもあり素粒子物理学の基本概念が根本からゆらぐことになった。 物質は不変であるというギリシア時代からの概念を物理学者は固く信じていたからである。 これ以来、物質を思い通りに創造したり破壊したりできることが認められるようになったのである。
 古典物理学においてはエネルギは創造することも破壊することもできず厳密に保存されており、単にひとつの形態から別の形態へと変化するだけであると説明された。 例えば、石油の中に蓄えられた化学エネルギは熱と車の運動に変換される。
 しかし、エネルギと時間について述べたハイゼンベルクの不確定性原理によれば、ごく短い時間に限って、このエネルギ保存則が破られることもある。 つまり、問題となる時間が短くなればなるほど、そのエネルギの不確定性が増すということである。 このため非常に短い時間であればエネルギ保存則が一時的に停止することもありえるのである。 量子力学的なゆらぎのおかげで、無から無償でエネルギを借りられるかもしれないのである。 このような出来事は「何も存在していない」真空のなかでさえ起こりえる。 不確定性原理のために、真空は活動で沸き立っているのである。
 このような真空概念を示したのは主にディラックであった。 彼はマックスウェルの電磁場が、物質が光子を吸収したり放出したりする様子を正しく説明しているのであれば、それを量子の言葉で表すことができるにちがいないと考えた。 彼はマックスウェルの数学的モデルを拡大して電磁場を無数の振動子の集合として描いたのである。 それぞれの振動子のエネルギーレベルを原子中の電子エネルギのように量子化したのである。 その結果、真空でさえつねに虚の活動で沸き立っているという結論を得た。 空間のあらゆる場所で場のエネルギに絶えることのないゆらぎが生じているのである。 そして十分なエネルギをもったゆらぎは電子と陽電子のような物質と反物質の対を瞬間的に形成することができる。
 電磁場に関するディラック方程式は問題のいくつかを解決したが、多くの問題もまた提起した。 それは場がもちうるエネルギ量には限界がないという事実に関係している。 このため理論の中にしばしば無限大が登場してくる。 この無限大は量子場の理論の場合、朝永振一郎などの独創的な理論家たちにより「くりこみ」として知られる手法で解消できることが発見された。 無限大は、ほかの無限大と相殺することで巧妙に消されてしまうのである。 これにより意味深長で大成功を収める予測がしばしば提供された。
 量子場の大きな欠点は重力を扱えないことであった。 その場合に生じる無限大はくりこみを使っても消すことができない。 多くの宇宙論学者は重力の量子版が完成すれば一般相対性理論における特異点の問題を解決できるであろうとしている。
 Pairpole 宇宙モデル での「無からの有の発生」は「ディラックの説」を採っている。 だがディラックは「真空は虚のエネルギで沸きたっていること、その真空から同じ質量で電荷が反対の物質としての電子と反物質である陽電子が発生すること、また陽電子と電子が衝突すると対消滅を起こし、その時に光を発すること」等のエネルギの胎動のみを記述するだけであって時間にはまったく無関心である。
 マヨラナはこの「無からの有の発生」についてエネルギの胎動と時間を統合して記述した。 1937年に発表された「中性粒子(マヨラナ粒子)の理論」では粒子(ディラックが言うところの物質=電子)と反粒子(ディラックが言うところの反物質=陽電子)は同じものであって、単に未来に向かう実時間での記述か、あるいは過去に向かう虚時間での記述かの違いであるとしたのである。
 物理法則は時間の矢を逆にしても等価的に成立する。 分かり易く言えば、とある物体運動を撮影したビデオ映像を逆回しに再生しても、その物体運動を記述する運動方程式はまったく同様に成立するのである。 あえて誤りを怖れずディラックとマヨラナの違いを一気に還元すれば、無からの有の発生を考えるバックグラウンドとして「虚のエネルギで満たされた真空を基としたディラック」と「過去に向かう虚の時間を基としたマヨラナ」という対比構図に帰着する。
 私のような工学的メカニズムの技術者からすれば虚の時間を構想したマヨラナの予見は目から鱗が落ちるような感嘆を覚える。 我々は未来に向かう実時間の世界に生きているから物体が瞬時に消滅してしまうなど想像だにできないが、もし過去に向かう虚時間の世界を同時に眺めることができたならば実時間の世界で発生した物体が虚時間の世界では次々に消滅していくことを目撃するにちがいない。
 100年近く前の物理学界の状況を考えるとやはりエットーレ・マヨラナという青年はまれに見る天才であったに違いない。 以降、物理学は戦争に向かう当時の社会世相の中で原子核をめぐる原子核物理学へと大きく舵を切っていくことになる。 マヨラナと研究をともにしたフェルミはアメリカに渡り原子爆弾開発プロジェクトである「マンハッタン計画」で中心的な役割を担うことになる。
 そのような状況の中でマヨラナは忽然とこの世から姿を消してしまったのである。 マヨラナほどの能力をもってすれば科学がたどる未来までの道程をありありと予見できたにちがいない。 そしてまた自らが垣間見てしまった宇宙の真象を自らの消滅に使うことも可能であったろう。 かく考えれば、あるいはマヨラナは自らがマヨラナ粒子となって虚時間の世界にワープしてしまったのかもしれない。
 そうであれば実時間の世界に存在する我々には永遠に彼を見つけ出すことは不可能である。
真理のかたちとは
 「消えた天才物理学者を追う」で述べた「無からの有の発生」に関するディラックとマヨラナの予見についての続きである。 その中で私はディラックの予見は「虚のエネルギで満たされた真空を想定する」ことで生まれ、マヨラナの予見は「過去に向かう虚の時間を想定する」ことで生まれたとする対比構図を提示した。
 思考の過程で面倒な細部は敬して遠ざけ、抽象化と一般化をめざすことは、天才のみがよくなしえるわざである。 何もないとする真空に虚のエネルギの胎動を想定したディラックのひらめきはよく常人がなせるものではない。 同様に未来に向かう実時間の世界に生きながら過去に向かう虚時間を想定したマヨラナのひらめきまたしかりよく常人がなせるものではない。 当時の状況を考えると宇宙の根源的課題に対して2つの画期的予見が生まれたことは奇跡に類することであろう。
 この奇跡の結末として用意されるシナリオは以下の3通りである。
 1)両者の予見のどちらかが正しく、どちらかが間違いであったとするシナリオ
 2)両者の予見がともに間違いであったとするシナリオ
 3)両者の予見がともに正しかったとするシナリオ
 私が描くもっとも確率が高いシナリオは3)の両者の予見がともに正しいとするものである。 天才としての予見能力は優劣つけがたく軽々にミスをするとは思われない。 つまり、両者の予見の違いは同じものを別々の視点から眺めた風景の異なりなのではなかろうか ・・ それは紙の表裏のようなものであり、1枚の紙には違いないのである。
 ディラックは時間に無関心ではあるが、もともと眺めている空間はハイゼンベルクの不確定性原理で述べるエネルギ保存則が一時的に停止する非常に短い時間(限りなく 0 に近い時間)の世界である。 この空間でこそ量子力学的なゆらぎのおかげで、無から無償でエネルギを借りられるかもしれないのである。 ゆえにディラックは真空は活動で沸き立っていると予見したのである。
 マヨラナが眺めている空間は未来に向かう実時間と過去に向かう虚時間の狭間であり、これまた非常に短い時間(限りなく 0 に近い時間)の量子力学的なゆらぎの世界である。
 Pairpole 宇宙モデル では時間軸に添って構成されている宇宙を「連続宇宙」と呼び、時間軸と垂直に構成されている宇宙を「刹那宇宙」と呼んだ。 連続宇宙は言うなれば「空間を時間で積分した宇宙」であり、我々はその宇宙を「時空間」と呼んでいる。 刹那宇宙は「空間を時間で微分した宇宙」であり、いまだ呼び名はない。
 私はその刹那宇宙の胎動を以下のように表現した。
 刹那宇宙では、無から有への発生と、有から無への消滅が、間断なく繰り返され、有と無が混合したエマルジョンとなり、あらゆる可能性が「ゆらぎの状態」にある。
 刹那宇宙では、生と死が混在し、創造と破壊が混在する。 あらゆる生命は刹那に生まれて刹那に死に、あらゆる存在は刹那に創造されて刹那に破壊される。
 ディラックとマヨラナが注目した世界とは、言うなれば時間軸と垂直に構成され時間が限りなく 0 に近い「刹那宇宙」である。 ディラックも、マヨラナも、おそらく私もまた、眺めていた世界は同じであったのである。 その世界を、ディラックは「虚のエネルギで満たされたゆらぎの空間」と認識し、マヨラナは「実時間と虚時間の挾間に生じたゆらぎの空間」と認識し、私は「有と無が混合したあらゆる可能性に明滅するゆらぎの空間」と認識したにすぎないのである。
 「群盲象を撫でる」ということわざがある。 盲人の集団が象に触って「象とは何か」を知ろうとしている様を描写している。 その中で鼻に触っている者は「象とは蛇だ」と言い、足に触っている者は「象とは丸太だ」と言い、腹に触っている者は「象とは岩だ」と言う、耳に触っている者は「象とはヒラメだ」と言う。 彼らの話を総合すると「象とは蛇で、丸太で、岩で、ヒラメだ」というわけである。
 「真理のかたち」とはおよそこのようなものなのであろう。 どれもが真理の部分であって全体ではない。 真理に到達しようとすれば部分を統合しなければならない。 つまり、ディラックの予見、マヨラナの予見 ・・ 等々が統合されたとき、真理の女神は一瞬間こちらを振り向いて素顔でにっこりと微笑んでくれるのである。 それがいつになるのかは背を向けている女神本人に聞いてみなければわからないが、彼女の気分しだいというところが妥当な予測ではなかろうか ・・・。

2013.11.27


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