Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

意識と物質のパラレルワールド〜縁のループ
 「知的冒険エッセイ」 と 「信州つれづれ紀行」 は 「時空の旅」 であって、互いに表裏を成す 「パラレルワールド(平行宇宙)」 を構成している。 知的冒険エッセイは 「意識世界の時空の旅」 であり、信州つれづれ紀行は 「物質世界の時空の旅」 である。
 先日、「信州つれづれ紀行」 の中から抽出して編集した 「軽井沢文学散歩〜のちの思いに」 を書いていた中で、次のようなことに思いが至った。 以下はその末尾に配した 「セゾン現代美術館」 からの抜粋である。

1998.5 / セゾン現代美術館 / 長野県北佐久郡軽井沢町長倉
不可思議な時空のめぐり逢い
 私は 「時は流れず」 を書き置いて、この世を去った反骨の哲学者、大森荘蔵の著書 「時間と存在」 の中にポール・ヴァレリーの言葉を見いだした。 それはゼノンが提起した 「アキレスと亀」 のパラドックスに纏わる点時刻概念についてのものであった。 ポール・ヴァレリーについては 「堀辰雄文学記念館」 を訪れた際に、「風立ちぬ、いざ生きめやも」 の中で出逢っている。
 またとある日、と言っても20年ほども前の話であるが、私は軽井沢にある 「セゾン現代美術館」 を訪れた。 軽井沢特有の深閑とした森の中にたたずむ瀟洒な美術館である。 その際、通路に置かれた 「ある彫刻像」 に興味をひかれた。 それは白い等身大の石膏像、4体で構成され、街中の舗道で織りなされた 「ワンカット」 を切り取ったかのような作品であった。 前面に立つ2人の男は何やらひそひそと話をしているようであり、後ろのベンチに座った女2人はそれには無関心を装って会話に夢中といったような場面である。 この彫刻像は 「いったい何を語っている」 のであろうか? 興味はそこであった。 それから2日ほどして、私は居住する松本市の市街に位置するとある書店で1冊の本を買った。 哲学者、大森荘蔵の 「時間と存在」 である。 帰宅して読み出したところで、私は唖然としてしまった。 その第2章、幾何学と運動、第3項、空間と幾何学にその彫刻像について書かれていたのである。 その記載は以下のようであった。
 彫刻家は、自由な立体図形を制作することで空間の切断面を提示する。 人体という立体物から出発しても、やがてそれを自由に変形することで空間の新しい切断面を制作する。 そのことを例えばシーガルの、街頭の人々そっくりの石膏像(軽井沢セゾン美術館)が教えてくれる。 現実の人間から他の属性を一切漂白してただ物体としての形態を残すことで空間の切断面を強調するからである。
 大森荘蔵の著書 「時間と存在」 の中で文学者、ポール・ヴァレリーが担った役割は 「時間」 についてであり、彫刻家、ジョージ・シーガルが担った役割は 「空間」 についてである。 大森がこの2人とめぐり逢ったのはいかなる縁によったのか?
 私にとってみれば、それは軽井沢にある 「セゾン現代美術館」 を訪れてジョージ・シーガルの彫刻像に出逢うことで大森荘蔵の哲学を知ることに至り 「空間概念」 に関する重要な啓示を受ける縁となり、堀辰雄の小説 「風立ちぬ」 の舞台となった長野県富士見町にある旧結核療養所 「富士病棟」 を訪れたことが契機となって、軽井沢にある 「堀辰雄文学記念館」 でポール・ヴァレリーの “ Le vent se leve, il faut tenter de vivre ” (風立ちぬ、いざ生きめやも) に出逢い 「時間概念」 に関する重要な啓示を受ける縁となった。 そしてそのポール・ヴァレリーが再び大森荘蔵の哲学に回帰し、ゼノンが提起した 「点時刻概念」 のパラドックスに収束するなどという 「縁のループ」 はいかにして可能であったのか?
 共時性を凌駕した 「不可思議な時空のめぐり逢い」 を感ぜずにはいられない。
 かくして構成された縁のループに導かれて行き着いた時空間(宇宙)の素顔が 「過去も未来もない(時間がない)それらが重なった現在だけの世界像」 であり、「遠いも近いもない(空間がない)それらが重なった仕組みだけの世界像」 であったのである。

 「軽井沢文学散歩」 が行き着いた意識的世界は、物質的世界を描いた知的冒険エッセイが行き着いた 「時間も空間もない現在だけで構成されたシンプルな宇宙」 そのものであった。 大森荘蔵の哲学、ポール・ヴァレリーの文学、ジョージ・シーガルの芸術が私の中で不可思議な縁のループを描いて 「新たな宇宙構造」 に行き着くことなど思ってもみないことであった。 それは、知的冒険エッセイにして、信州つれづれ紀行にして、科学・哲学・芸術・文学 等々の学際をクロスオーバーして探求した 「アプローチ方法の賜」 であったのか、それとも出逢った 「縁の僥倖」 であったのか、胸中いまだ漠として定かではない。

2024.05.09


copyright © Squarenet