Linear 信州ベスト紀行セレクション
軽井沢文学散歩
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のちの思いに
 軽井沢は山国信濃にあって、どこか洗練された都会的雰囲気が漂っている。 そこには日本の近代化を担った人達の息吹と情感が満ちている。 近衛文麿、有島武郎、内村鑑三、北原白秋、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、辻邦生・・等々。 その足跡を訪ねて後の世に託した彼らの思いがいかなるものであったのかを考える。 以下は 「信州つれづれ紀行」 の中から抽出して編集した 「風景の物語」 である。
軽井沢高原白糸の滝〜軽井沢高原教会〜軽井沢石の教会〜軽井沢高原文庫〜軽井沢雲場池〜堀辰雄文学記念館〜軽井沢聖パウロカトリック教会〜軽井沢プリンスショッピングプラザ〜信濃追分からの浅間山〜セゾン現代美術館


2010.4 / 軽井沢高原 白糸の滝 / 長野県北佐久郡軽井沢町
過酷な運命
 軽井沢の鹿鳴館と呼ばれた旧三笠ホテルは明治38年に落成。 現在は国の重要文化財となっている。 その三笠ホテルを見学したあと、浅間山の山頂に至る山麓をここまで登ってきたのである。
 もう30年以上も前のことになろうか、この滝を見物したことがあるのだが、歳月は私の記憶をすっかり洗い流してしまったようで、白い糸のように幾筋もの滝が流れ落ちる様が茫洋と一致する程度で、周囲の景観は浮かんではこなかった。
 絶え間なく流れ落ちる清滝を眺めているうちに、三笠ホテルの貴賓室に展示されていた、色あせた一枚の写真のことが、水面の泡沫の中から甦ってきた。 それはかってその貴賓室で催された晩餐会をとらえたものであり、近衛文麿、有島武郎など、当時の社交界を代表するそうそうたる文化人が婦人同伴でテーブルを囲み 「少々うかない顔」 をして写っていた。
 彼らもまた、この滝を眺めにここまでやってきたに違いないのだが ・・ そのとき ・・ この滝はいったいいかなる気持ちで、その後に彼らが背負うことになる 「過酷な運命」 を眺めていたのであろうか ・・・。



2011.2 / 軽井沢高原教会 / 長野県北佐久郡軽井沢町
信仰を育む
 1886年、カナダ人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーがこの地を訪れて以来、軽井沢にキリスト教が根付き、各教会では信仰が育まれてきた。 軽井沢高原教会は、1921(大正10)年に開かれた 「芸術自由教育講習会」 を原点に誕生。 前身であった質素な講堂では、キリスト教者であり思想家である内村鑑三をはじめ、北原白秋、島崎藤村ら当時を代表する文化人が集い、熱く語り合ったという。 現在では隣接するホテルで催される結婚式のウェディング教会として多忙な日々をおくっている。



2011.2 / 軽井沢石の教会 / 長野県北佐久郡軽井沢町
対称性人類学
 軽井沢の自然をこよなく愛した明治・大正期のキリスト教者内村鑑三。 「軽井沢石の教会」 は 「神が創造した自然の中にこそ祈りの場がある」 という無教会思想から生まれた教会である。 3大建築の巨匠と称えられるフランク・ロイド・ライトの偉業を継いだケンドリック・ケロッグが創生した誓いの場は神秘的でありながら慈しみにあふれ自ずと敬虔な気持ちに立ち返ることができる。 祭壇も十字架もないこの教会は形式にとらわれないふたりの誓いにふさわしい ・・・ ウェブサイトに記載された石の教会の説明をここまで読んで、最近読んだ宗教学者、中沢新一の 「対称性人類学」 のことに思いが至った。
 主題の論旨は割愛させてもらうが、ここでの趣旨は以下のことである。
 原始以来、こころの奥底に抑圧され封じ込められている人類の 「無意識世界」 を庭園における造形として表現するにおいて、西欧では庭の一隅に 「地下洞窟」 を設けるのに対し、日本では竜安寺に代表されるごとく無彩の砂と石を配した 「石庭」 をもってするという相違点についてである。
 なるほど、この石の教会を眺めていると西欧人の無意識世界の構造をかいま見るようで納得がいく。 さらには神秘体験に裏打されたジョルジュ・バタイユ(フランスの思想家)の 「至高性」 や、そのバタイユに影響を受けた芸術家、岡本太郎が描こうとした 「縄文的呪術世界」 の様相が教会の周囲からあたかも陽炎のごとく沸き立ち天空に向かって立ちのぼっているかのように感じられる。



2011.6 / 軽井沢高原文庫 / 長野県北佐久郡軽井沢町塩沢
のちの思いに
 日本の中の西洋と言われた軽井沢はまた多くの文人、作家に愛された地である。 軽井沢高原文庫はかってあったであろう 「彼らの思い」 が何であったのかを知る 「よすが」 を今に伝えている。 堀辰雄、堀に師事し若くして世を去った立原道造、室生犀星、生まれ出づる悩みに苦しんだ有島武郎、その有島が人妻、波多野秋子と情死した別荘 「浄月庵」 もまた旧軽井沢 「三笠の地」 からここに移築されている。
 思えば有島武郎、近衛文麿の面々が夫人同伴で収まった1枚の写真を見たのは、昨年4月に訪れた、軽井沢の鹿鳴館と呼ばれた 「旧三笠ホテル」 の貴賓室であった。 さらに、悩める有島が師事したキリスト教者、内村鑑三が創った軽井沢 「石の教会」 を訪れたのは今年の2月であった。
 そして今日、訪れた高原文庫の庭は、雨に打たれた新緑の木々に包まれて森閑としている。 その庭の片隅で、私は立原道造の詩 「のちのおもひに」 が刻まれた 「ささやかな歌碑」 を見いだした。 軽井沢に住んだ辻邦生が急逝して、はや12年の歳月が経過しようとしている。 悲報を聞いた刻、なぜか私は、氏の 「西行花伝」 を読んでいたのだが、そのときの心境を、知的冒険エッセイ 「時空の旅」 第257回 「のちの思いに」 で、以下のように書いている ・・・ (前略) 翌日の新聞記事にて、辻氏の最後の作品の表題が 「のちの思いに」 というものであり、それが氏と同様に軽井沢を深く愛した立原道造の詩の題名からのものであること、また氏がこの 「のちの思いに」 という表題を大変に気に入っていたこと等を知った (後略) ・・・ 軽井沢の 「いち時代」 を画した彼らが、後世に託した 「のちの思い」 とはいかなるものであったのか ・・・ 胸中いまだ漠として霧中に没している。
  のちのおもひに / 立原道造
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
― そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた・・・・

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう



2011.6 / 軽井沢雲場池 / 長野県北佐久郡軽井沢町
スワンレイク
 雲場池は軽井沢町、六本辻近くにある池で、「スワンレイク」 という愛称も持つ。 細長い形状から 「デーランボー(※)」 という巨人の足跡という伝説が残されているが、ホテル鹿島ノ森の敷地内に湧く 「御膳水」 を源とする小川をせき止めて誕生した池であるという。 天皇陛下も、軽井沢を訪れた際には必ず、この雲場池でのお散歩を1〜2回は楽しまれるとのことであるが、池畔の風景だけを見れば、ここが軽井沢であることを忘れてしまいそうである。
 ちなみに、夏になると日本政界の重鎮が集う 「鳩山別荘」 は、この池の北端に隣接している。
※)同じような巨人伝説は信州の各地にのこされていて、巨人の呼び名もどこか似かよっている。 その音の中に、かって列島に居住した 「縄文人の息づかい」 を感じるのは私だけであろうか ・・?



2013.11 / 堀辰雄文学記念館 / 長野県北佐久郡軽井沢町追分
風立ちぬ、いざ生きめやも
 解体が決まった堀辰雄の小説 「風立ちぬ」 の舞台となった長野県富士見町にある旧結核療養所 「富士病棟」 を訪れたのは昨年(2012年9月)のことであった。 なくなる前に見ておこうとふと思い立ってのことであり、折しも公開が終了する前日であった。 病室が狭くベットがあまりに小さいことに心したことを覚えている。
 次は軽井沢の追分にある 「堀辰雄文学記念館」 を訪れようと思っていたのだが、歳月はいたずらに過ぎ去ってしまった。 その後、宮崎駿監督のアニメーション映画 「風立ちぬ」 が上映されたことがきっかけで、この記念館が訪れる人でにぎわっているとのニュースを見るに及び、訪問はさらに先延ばしとなってしまった。
 ようようにして訪れたのは先日のことであり、季節はずれの雪が舞い降りたあとに到来したよく晴れた寒い秋日の午後であった。 地名としては知っていても、かっての追分宿の街区を歩くのは初めてであった。 さしもこの時期になると観光客の往来も絶えていて、街道は静かなたたずまいを漂わせていた。 冠雪を頂いた浅間山が西日を浴びて間近にせまっている。 その眺めは浅間山は追分からのものが秀逸であることを古今に渡って万人に認めさせるに充分なものであった。 堀辰雄を恋い慕った詩人、立原道造は東京帝国大学工学部建築学科を卒業(1937年3月)するにあたって 「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」 と題した制作を提出しているが、彼の構想もまた、この追分山麓を思い描いてのものであったに違いない。 道造はそれから2年後の1939年2月に第1回中原中也賞受賞の栄誉に輝いたのも束の間、3月29日に肺結核の病状が急変しこの世を去っている。 満24歳8か月のあまりに短い生涯であった。
 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 は記念館内の資料閲覧室に掲げられていた。 この有名な詩句はポール・ヴァレリーの詩 「海辺の墓地」 の一節 “Le vent se leve, il faut tenter de vivre” を堀辰雄が訳したものであるという。 文庫版 「風立ちぬ」 付録・語註では ・・ 「風立ちぬ」 の 「ぬ」 は過去・完了の助動詞で、「風が立った」 の意である。 「いざ生きめやも」 の 「め・やも」 は、未来推量・意志の助動詞の 「む」 の已然形 「め」 と、反語の 「やも」 を繋げた 「生きようか、いやそんなことはない」 の意であるが、「いざ」 は、「さあ」 という意の強い語感で 「め」 に係り、「生きようじゃないか」 という意が同時に含まれている。 ヴァレリーの詩の直訳である 「生きることを試みなければならない」 という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっている。 また、過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている ・・ と記している。
 その解説はあたかも拙稿 「ペアポール宇宙モデル」 の刹那宇宙と連続宇宙の構造を垣間見るような風景である。 刹那宇宙とは時間軸と垂直に断面したときに現れる世界であり、「時間経過がない」 ため、原因と結果で構成される因果律は成立しない。 すべての現象は互いに意味なく無関係に存在するのみである。 連続宇宙は時間軸に沿って断面したときに現れる世界であり、「時間経過がある」 ため、原因と結果で構成される因果律が成立する。 すべての現象は互いに意味と関係をもって存在している。
 人生の物語もまた、刹那宇宙と連続宇宙のエマルジョンであり、刹那のニヒリズムを超克して連続の永遠に昇華させる涙ぐましい営為の所産なのである。
 資料閲覧室を出て敷地を奥に進むと堀辰雄が終の棲家とした小さな山荘が広い中庭を前にしてひっそりと立っている。 廊下の戸は開け放されていて籐椅子が置かれた居間に立木の梢をぬけてきた夕映えの斜陽が弱い光を落としている。 晩年の10年間、免れ得なかった肺結核の病苦との絶え間ない闘いの日々をこの居間で過ごした堀辰雄は48歳で天国へ旅立っていった。
 追分とは、もともと道が二つに分かれる場所をさす言葉であるが、終の棲家となった山荘から街道をしばらく北に向かうと 「分去れ(わかされ)の碑」 に至る。 分去れとは群馬から長野にかけての方言であり、道が左右に分かれるところを言う。 信濃追分の分去れとは北国街道と中山道の分岐点であり、その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみ、ともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来だという。
 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 所を得てまさにふさわしい。



2017.2 / 軽井沢聖パウロカトリック教会 / 長野県北佐久郡軽井沢町
甦った時空間
 以前に訪れた旧軽井沢銀座が時の流れの中でどのように変化したのかを確かめたくて、再びその地を訪れた。 季節も季節であって、通りはおせいじにも 「銀座」 とは言えない閑散とした風情が漂っていた。 通りの両側に軒を連ねる店も様相はすっかり変わり、かって入った店は時間の彼方へ去り、新たな店が今の時間を費やしている。 記憶にのこる店は数軒であった。
 時代の流れといってしまえばそのとおりである。 ただ通りから横に入るショッピングモールは最近造られたとみえ今風のファッションセンスで装われていた。 そのモール(※チャーチストリート)を思いもなしにぶらぶらと歩いていくと、いきなり 「軽井沢聖パウロカトリック教会」 に出た。 よくみるとそれはかって姪の結婚式で訪れた教会であった。 そのときは場所がわからず式に遅れてしまい途中からの参列であった。 その教会がこんな所にあろうとは思いもしないことであった。
 教会の中を見学できるとあったので、入り口のドアを開けると厳粛な霊気で満たされた静謐な空間が現れた。 やがて私の脳裏に 「確かにここに来た」 とする覚醒が時空の彼方からおとずれた。 時が移ろっても、その神域を冒す者は誰ひとりとしていなかったのである。
※)軽井沢聖パウロカトリック教会
 軽井沢聖パウロカトリック教会は1935年(昭和10年)に英国人ワード神父によって設立されたカトリック教会である。 設計は米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが担当した軽井沢の歴史的建造物である。 傾斜の強い三角屋根、大きな尖塔、打ち放しのコンクリートが特徴。 1961年から現在までの半世紀にわたり、カルロス・マルチネス神父が主司祭を務めている。 旧軽井沢の銀座通りから 「チャーチストリート」 を抜けた正面に位置する教会には、四季折々の美しい自然があふれ、毎年多くの観光客が訪れるという。



2017.3 / 軽井沢プリンスショッピングプラザ / 長野県北佐久郡軽井沢町
そわそわした雰囲気
 軽井沢の駅前に位置するアウトレットは 「軽井沢プリンスショッピングプラザ」 と呼ばれる。 東京から新幹線で1時間弱という好アクセスに加え、2015年春には北陸新幹線が長野から金沢まで延伸され、関東圏だけではなく北陸方面からも多くの人が訪れる。
 都市型アウトレットとは異なり、場内には池を配した広大な広場を設け、リゾート気分を満喫できる。 「3世代で快適に楽しく過ごせるショッピングモール」 をテーマにウェストとイーストに区分けされた広大なエリアを1日でまわりきるのは至難のワザであるという。
 山国信州の地でありながらも軽井沢と東京の2つの風が吹き抜ける 「そわそわした雰囲気」 が多くの人々をここに集めているのであろう。 混み合った周回路を歩いていると背後から 「ありすぎてわかんね〜」 という嘆息混じりの若者の声が聞こえてきた。 しいて欠点を探せば 「店舗がありすぎる」 ことぐらいということであろうか。 ウィンドウ映像は、ショッピングモール中央に位置する芝生広場の景観である。



2018.12 / 信濃追分からの浅間山 / 長野県北佐久郡軽井沢町追分
あの風景との遭遇
 2018年12月、信濃追分を愛した堀辰雄や立原道造が眺めた浅間山を眺めたくなった私はこの地を訪れた。だが当時の面影は何処かに隠し去られ、その姿を眺めることはできなかった。 そして今日。 どうやらその風景らしきものに出逢うことができた。 堀辰雄や立原道造が逍遙した 「あの道」 とは 「この道」 ではあるまいか? 立原道造が描いた 「はじめてのものに」 や 「のちのおもひに」 や 「夢みたものは」 に登場した 「あの風景」 とは 「この風景」 ではあるまいか?
はじめてのものに
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

── 人の心を知ることは ・・・ 人の心とは ・・・
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と ・・・ また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた
のちのおもひに
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
── そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた ・・・・

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
夢みたものは
夢見たものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山並みのあちらにも しずかな静かな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたっている
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘が 踊りをおどってる

告げて うたっているのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたっている

夢見たものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と



1998.5 / セゾン現代美術館 / 長野県北佐久郡軽井沢町長倉
不可思議な時空のめぐり逢い
 私は 「時は流れず」 を書き置いて、この世を去った反骨の哲学者、大森荘蔵の著書 「時間と存在」 の中にポール・ヴァレリーの言葉を見いだした。 それはゼノンが提起した 「アキレスと亀」 のパラドックスに纏わる点時刻概念についてのものであった。 ポール・ヴァレリーについては 「堀辰雄文学記念館」 を訪れた際に、「風立ちぬ、いざ生きめやも」 の中で出逢っている。
 またとある日、と言っても20年ほども前の話であるが、私は軽井沢にある 「セゾン現代美術館」 を訪れた。 軽井沢特有の深閑とした森の中にたたずむ瀟洒な美術館である。 その際、通路に置かれた 「ある彫刻像」 に興味をひかれた。 それは白い等身大の石膏像、4体で構成され、街中の舗道で織りなされた 「ワンカット」 を切り取ったかのような作品であった。 前面に立つ2人の男は何やらひそひそと話をしているようであり、後ろのベンチに座った女2人はそれには無関心を装って会話に夢中といったような場面である。 この彫刻像は 「いったい何を語っている」 のであろうか? 興味はそこであった。 それから2日ほどして、私は居住する松本市の市街に位置するとある書店で1冊の本を買った。 哲学者、大森荘蔵の 「時間と存在」 である。 帰宅して読み出したところで、私は唖然としてしまった。 その第2章、幾何学と運動、第3項、空間と幾何学にその彫刻像について書かれていたのである。 その記載は以下のようであった。
 彫刻家は、自由な立体図形を制作することで空間の切断面を提示する。 人体という立体物から出発しても、やがてそれを自由に変形することで空間の新しい切断面を制作する。 そのことを例えばシーガルの、街頭の人々そっくりの石膏像(軽井沢セゾン美術館)が教えてくれる。 現実の人間から他の属性を一切漂白してただ物体としての形態を残すことで空間の切断面を強調するからである。
 大森荘蔵の著書 「時間と存在」 の中で文学者、ポール・ヴァレリーが担った役割は 「時間」 についてであり、彫刻家、ジョージ・シーガルが担った役割は 「空間」 についてである。 大森がこの2人とめぐり逢ったのはいかなる縁によったのか?
 私にとってみれば、それは軽井沢にある 「セゾン現代美術館」 を訪れてジョージ・シーガルの彫刻像に出逢うことで大森荘蔵の哲学を知ることに至り 「空間概念」 に関する重要な啓示を受ける縁となり、堀辰雄の小説 「風立ちぬ」 の舞台となった長野県富士見町にある旧結核療養所 「富士病棟」 を訪れたことが契機となって、軽井沢にある 「堀辰雄文学記念館」 でポール・ヴァレリーの “ Le vent se leve, il faut tenter de vivre ” (風立ちぬ、いざ生きめやも) に出逢い 「時間概念」 に関する重要な啓示を受ける縁となった。 そしてそのポール・ヴァレリーが再び大森荘蔵の哲学に回帰し、ゼノンが提起した 「点時刻概念」 のパラドックスに収束するなどという 「縁のループ」 はいかにして可能であったのか?
 共時性を凌駕した 「不可思議な時空のめぐり逢い」 を感ぜずにはいられない。
 かくして構成された縁のループに導かれて行き着いた時空間(宇宙)の素顔が 「過去も未来もない(時間がない)それらが重なった現在だけの世界像」 であり、「遠いも近いもない(空間がない)それらが重なった仕組みだけの世界像」 であったのである。

 

2024.05.02

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