Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

縁のループ〜時間と存在
 「時は流れず」を書き置いてこの世を去った反骨の哲学者、大森荘蔵の著書「時間と存在」の中にポール・ヴァレリーの言葉を見いだした。それはゼノンが提起した「アキレスと亀」のパラドックスに纏わる点時刻概念についてのものであった。
 「ゼノンのトリックはおぞましいばかりに単純である。それは巧妙に動体が動きつくすべき長さをごまかすこと ・・ そしてそれに分割を ・・ あるいはむしろ長さの分割可能性を ・・ 代置することに存する。分割とかあるいはむしろ無限の求和を取り行うべきものは、そのために多くの時間を失い、それを二度とやろうとはせず、またしまいには二度とはじめないことになってしまうのは分かりきったことだ ・・・」
 ポール・ヴァレリーについては 第772回 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 で以下のように書いた。それは軽井沢にある「堀辰雄文学記念館」を訪れたときのことである。
 「風立ちぬ、いざ生きめやも」は記念館内の資料閲覧室に掲げられていた。この有名な詩句はポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節 “ Le vent se leve, il faut tenter de vivre ” を堀辰雄が訳したものであるという。
 文庫版「風立ちぬ」付録・語註では ・・ 「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意である。「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意であるが、「いざ」は、「さあ」という意の強い語感で「め」に係り、「生きようじゃないか」という意が同時に含まれている。ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっている。また、過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている ・・ と記している。
 また大森荘蔵の著書「時間と存在」については 第911回 「共時性に想う(2)〜ありえない確率」 でもとりあげ以下のように書いた。
 とある日、と言っても20年ほども前の話である。私は軽井沢にある「セゾン現代美術館」を訪れた。軽井沢特有の深閑とした森の中にたたずむ瀟洒な美術館である。その際、通路に置かれた「ある彫刻像」に興味をひかれた。それは白い等身大の石膏像、4体で構成され、街中の舗道で織りなされた「ワンカット」を切り取ったかのような作品であった。前面に立つ2人の男は何やらひそひそと話をしているようであり、後ろのベンチに座った女2人はそれには無関心を装って会話に夢中といったような場面である。この彫刻像は「いったい何を語っている」のであろうか? 興味はそこであった。 それから2日ほどして、私は居住する松本市の市街に位置するとある書店で1冊の本を買った。哲学者、大森荘蔵の「時間と存在」である。帰宅して読み出したところで、私は唖然としてしまった。その第2章、幾何学と運動、第3項、空間と幾何学にその彫刻像について書かれていたのである。 その記載は以下のようであった。
 「彫刻家は、自由な立体図形を制作することで空間の切断面を提示する。人体という立体物から出発しても、やがてそれを自由に変形することで空間の新しい切断面を制作する。そのことを例えばシーガルの、街頭の人々そっくりの石膏像(軽井沢セゾン美術館)が教えてくれる。現実の人間から他の属性を一切漂白してただ物体としての形態を残すことで空間の切断面を強調するからである」
 その作品の作者はアメリカのジョージ・シーガルで作品名は「ゲイ・リベレーション」であった。
 大森荘蔵の著書「時間と存在」の中で文学者、ポール・ヴァレリーが担った役割は「時間」についてであり、彫刻家、ジョージ・シーガルが担った役割は「空間」についてである。大森がこの2人とめぐり逢ったのはいかなる縁によったのか?
 私にとってみれば、それは軽井沢にある「セゾン現代美術館」を訪れてジョージ・シーガルの彫刻像に出逢うことで大森荘蔵の哲学を知ることに至り「空間概念」に関する重要な啓示を受ける縁となり、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の舞台となった長野県富士見町にある旧結核療養所「富士病棟」を訪れたことが契機となって軽井沢にある「堀辰雄文学記念館」でポール・ヴァレリーの “ Le vent se leve, il faut tenter de vivre ” (風立ちぬ、いざ生きめやも) に出逢い「時間概念」に関する重要な啓示を受ける縁となった。 そしてそのポール・ヴァレリーが再び大森荘蔵の哲学に回帰しゼノンが提起した「点時刻概念」のパラドックスに収束するなどという「縁のループ」はいかにして可能であったのか?
 共時性を凌駕した不可思議な時空のめぐり逢いを感ぜずにはいられない。
 かくして構成された縁のループに導かれて行き着いた時空間(宇宙)の素顔が「過去も未来もない(時間がない)それらが重なった現在だけの世界像」であり、「遠いも近いもない(空間がない)それらが重なった仕組みだけの世界像」であったのである。

2018.01.31


copyright © Squarenet