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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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共時性に想う(2)〜ありえない確率
 以下は私が遭遇した共時性についての話である。
 とある日、と言っても20年ほども前の話である。 私は軽井沢にある「セゾン現代美術館」を訪れた。軽井沢特有の深閑とした森の中にたたずむ瀟洒な美術館である。その際、通路に置かれた「ある彫刻像」に興味をひかれた。それは白い等身大の石膏像、4体で構成され、街中の舗道で織りなされた「ワンカット」を切り取ったかのような作品であった。前面に立つ2人の男は何やらひそひそと話をしているようであり、後ろのベンチに座った女2人はそれには無関心を装って会話に夢中といったような場面である。この彫刻像は「いったい何を語っている」のであろうか? 興味はそこであった。
 それから2日ほどして、私は居住する松本市の市街に位置するとある書店で1冊の本を買った。哲学者、大森荘蔵の「時間と存在」である。帰宅して読み出したところで、私は唖然としてしまった。その第2章、幾何学と運動、第3項、空間と幾何学に、その彫刻像について記述されているではないか。その作品の作者は、アメリカのジョージ・シーガルであり、作品名は、ゲイ・リベレーションであった。
 意図なくふらりと訪れた軽井沢の美術館で興味にひかれて眺めた作品が、直後に、これまた意図なく訪れた松本市の書店でふと手にした哲学書の中に顕れる確率とはいったいいかなるものか? 数学的に計算すれば、ほとんどありえない程に希少な確率であろう。例えて言えば「ゴビ砂漠の中から1本の針を見いだす」ようなものであろう。
 またとある日、5年ほど前の話である。 私は紅葉を撮影するため上信越自動車道を新潟県妙高市に位置する妙高高原を目指していた。その時、車内では、どうしてそうなったかは今となれば定かではないが、マーク・トウェインの「トムソーヤ」の話になった。トムソーヤの話などは数十年近くしたことがない。そしてようよう到着した妙高高原、池ノ平温泉スキー場のゲレンデにカメラを据えて振り向くと、そこには「トムソーヤ」と大書きされた看板を掲げたレストランが建っていた。スキーシーズンのみ開業する店のようである。意図なく始まったトムソーヤの話のあとで、直後に、意図なく訪れた高原にあるレストラン「トムソーヤ」に遭遇する確率とはいったいいかほどになるのか?
 さらにとある日、4年ほど前の話である。 私は撮影の途上で長野県東筑摩郡麻績村にある法善寺に立ち寄った。その時に法善寺が信濃三十三観音札所めぐりの「1番札所」であることを初めて知った。それから2ヶ月ほどして、今度は三重塔を撮影すべく長野県上水内郡小川村にある高山寺を訪れた。そこで、あろうことか、その高山寺が信濃三十三観音札所めぐりの「33番札所(結願札所)」であることを知った。意図なく、続けて、訪れた寺が信濃三十三観音札所の寺であり、かつその「1番札所」と「33番札所」であることの確率とはいったいいかほどになるのか?
 私が遭遇したこれらの出来事はたんなる「偶然である」と言ってしまえばそれまでである。だが私には偶然を超えた「必然である」ように観えるのだが、どうであろう ・・・ 。
共時性に想う(3)〜無と有の狭間

2015.12.11


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