風立ちぬ、いざ生きめやも |
解体が決まった堀辰雄の小説「風立ちぬ」の舞台となった長野県富士見町にある旧結核療養所「富士病棟」を訪れたのは昨年(2012年9月)のことであった。なくなる前に見ておこうとふと思い立ってのことであり、折しも公開が終了する前日であった。病室が狭くベットがあまりに小さいことに心したことを覚えている。
次は軽井沢の追分にある「堀辰雄文学記念館」を訪れようと思っていたのだが歳月はいたずらに過ぎ去ってしまった。その後、宮崎駿監督のアニメーション映画「風立ちぬ」が上映されたことがきっかけで、この記念館が訪れる人でにぎわっているとのニュースを見るに及び、訪問はさらに先延ばしとなってしまった。
ようようにして訪れたのは先日のことであり、季節はずれの雪が舞い降りたあとに到来したよく晴れた寒い秋日の午後であった。地名としては知っていても、かっての追分宿の街区を歩くのは初めてであった。さしもこの時期になると観光客の往来も絶えていて、街道は静かなたたずまいを漂わせていた。冠雪を頂いた浅間山が西日を浴びて間近にせまっている。その眺めは浅間山は追分からのものが秀逸であることを古今に渡って万人に認めさせるに充分なものであった。堀辰雄を恋い慕った詩人、立原道造は東京帝国大学工学部建築学科を卒業(1937年3月)するにあたって「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」と題した制作を提出しているが、彼の構想もまたこの追分山麓を思い描いてのものであったに違いない。道造はそれから2年後の1939年2月に第1回中原中也賞受賞の栄誉に輝いたのも束の間、3月29日に肺結核の病状が急変しこの世を去っている。満24歳8か月のあまりに短い生涯であった。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」は記念館内の資料閲覧室に掲げられていた。この有名な詩句はポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節
“Le vent se leve, il faut tenter de vivre” を堀辰雄が訳したものであるという。
文庫版「風立ちぬ」付録・語註では・・「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意である。「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意であるが、「いざ」は、「さあ」という意の強い語感で「め」に係り、「生きようじゃないか」という意が同時に含まれている。ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっている。また、過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている・・と記している。
その解説はあたかも拙稿「ペアポール宇宙モデル」の刹那宇宙と連続宇宙の構造を垣間見るような風景である。刹那宇宙とは時間軸と垂直に断面したときに現れる世界であり、「時間経過がない」ため原因と結果で構成される因果律は成立しない。すべての現象は互いに意味なく無関係に存在するのみである。連続宇宙は時間軸に沿って断面したときに現れる世界であり、「時間経過がある」ため原因と結果で構成される因果律が成立する。すべての現象は互いに意味と関係をもって存在している。
人生の物語もまた刹那宇宙と連続宇宙のエマルジョンであり、刹那のニヒリズムを超克して連続の永遠に昇華させる涙ぐましい営為の所産なのである。
資料閲覧室を出て敷地を奥に進むと堀辰雄が終の棲家とした小さな山荘が広い中庭を前にしてひっそりと立っている。廊下の戸は開け放されていて籐椅子が置かれた居間に立木の梢をぬけてきた夕映えの斜陽が弱い光を落としている。晩年の10年間、免れ得なかった肺結核の病苦との絶え間ない闘いの日々をこの居間で過ごした堀辰雄は48歳で天国へ旅立っていった。
追分とは、もともと道が二つに分かれる場所をさす言葉であるが、終の棲家となった山荘から街道をしばらく北に向かうと「分去れ(わかされ)の碑」に至る。分去れとは群馬から長野にかけての方言であり、道が左右に分かれるところを言う。信濃追分の分去れとは北国街道と中山道の分岐点であり、その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみ、ともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来だという。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」 所を得てまさにふさわしい。
第213回
「刹那空間と連続空間」
第313回
「連続宇宙から刹那宇宙へ」
第179回
「軽井沢高原文庫」(どこでもウィンドウ映像紀行より) |
2013.11.22 |
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