未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
映像表現の可能性とは〜時空の物語に想う
撮影カメラの技術進歩によって、今では誰でもどこでも美しい映像を失敗することなく簡単に撮影することが可能になった。撮影するだけでなく、情報化技術の進歩によって撮影された映像を誰もが手軽にネット上に公開することも可能である。
だがこれらの進歩によって、逆に映像そのものの価値が低下してしまうという皮肉な現象もまた同時に進行している。美しい映像もあまりに供給過多となれば食傷気味になるのはまた当然の帰結である。もっとも、記念撮影や旅行の思いで等々の映像は目的が記録であって自己満足の価値は充分に存在する。
問題は第三者である他者が見る映像についての価値である。他者が映像の中に求めるものとは「映像が語る物語」であろう。それは物語で構成された映画の意味を考えれば了解されよう。1枚のスナップ写真であっても、その中に強烈な物語があれば、人々は大いなる興味と関心をもって眺めることになる。かくなる映像の物語性は、撮影カメラの技術が進歩しようが、情報化技術が進歩しようが、進歩するわけではない。
では映像の物語性とはいったい何であろうか?
第663回
「風景の物語(1)」、
第664回
「風景の物語(2)」では、風景が語る物語について探求している。「撮影した自然風景を 日付を記載しない限り 撮影した私をのぞいて 誰もその時系列を判定できないということは いかなることなのか?」という問いから始められた探求は「風景の物語とは 私がその現在場を訪れたことで 自然風景の中に含まれていた 私の過去や未来の意識場が象出することで発生した 内なる時間の流れが紡いだ 私自身の物語である」とする帰結に至った。
それはまた、
第999回
で論じた華厳経の教義である「万物は相互にその自己の中に一切の他者を含み 相互に関係しあい 円融無礙に旋回しあっている」とする説に根底で一致する。
では私自身の物語が第三者である他者の物語になるとはいかなることなのか?
その答えは、上記した華厳経の教義からも明らかであろうが、さらに言えば、
第282回
で述べた「予定調和の構造」から、あるいは、心理学者ユングが提唱した万人が共有するという「集団的無意識の存在」からも導かれることであろう。
ともあれ、映像とは「とある刹那の時空間を切り取った」ものであって、1枚の写真映像の中には、そのとき、その時空間に確かにあったであろう「時空の物語」が封印されているのである。映像表現の可能性をいうならば、かく封印された時空の物語をいかにして「抽出する」かにかかっている。こればかりは撮影機材や情報化技術の進歩発展をもってしても達成不可能ではあるまいか。
2017.02.22
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