未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
ワームホール(9)〜余話として
「ワームホール(4)〜
思惟半跏像への回帰
」では、思惟の源流として奈良斑鳩にたたずむ中宮寺の弥勒菩薩像をとりあげた。だがその弥勒菩薩像の横に置かれていた「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」にはふれなかった。
天寿国繍帳とは聖徳太子の死後、妃の橘大郎女が中心となり、太子追悼のために織らせた繍帳である。その繍帳の中に「世間虚仮 唯仏是真」という聖徳太子の言葉が縫い込まれている。この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるという意である。
生涯に渡り弥勒菩薩に帰依していた弘法大師、空海はおそらく弥勒菩薩像はもとより、この天寿国繍帳のことも知っていたに違いない。あるいはこの斑鳩のささやかな堂を訪れたかもしれない。
弥勒菩薩を中央にして聖徳太子と弘法大師がともに会合する形は象徴的である。それはユングの共時性を目の当たりに感じさせる光景である。
かくして三者の魂が行き着いた思惟とは、前回とりあげた「
宇宙とは現象である
」というワームホールの命名者、ジョン・アーチボルト・ウィーラーの感慨であった。
聖徳太子が後世に遺した「世間虚仮」とは、現代語に換言すれば「宇宙は現象」ということになろうし、弘法大師、空海が遺した「
太始と太終の闇
」と題された詩文、「生の始めに暗く 死の終わりに冥し(生まれる前に宇宙はなく 死んだ後に宇宙はない)」もまた究極では「宇宙は現象」という認識に収束する。勿論、もの言わず静かに瞑想する弥勒菩薩もまたその現象世界に遊んでいる。
かって弥勒菩薩像のもとを訪れたときには天寿国繍帳も目にしていたはずなのであるが ・・ ついぞ、ここまでは思考をめぐらすことはできなかった。そこには弥勒菩薩、聖徳太子、弘法大師をワームホールに導いた共時性(意味ある符号)が象出していたのであろうが、哀しいかな若輩の身であった私にはそれと感じることができなかったのである。歳月はめぐり、ここでめぐり逢うのもまた共時性に導かれた思惟の縁であろう。
かくして、さまざまなワームホールを巡った一連の探求は「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象である」という帰結に行き着いた。参加方式の現象とは、あなたの意識参加なくして、この世は存在しないということである。それはまた、あなたの意識がいかなるワームホールを通って、「どこに生まれ」、「どこに遊ぶ」のかは、自由な人生の賜ということを意味している。
2016.12.29
copyright © Squarenet