未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
生の始めに暗く 死の終わりに冥し
結局。 物質と意識で構成された宇宙の探求は「いかなるルートを辿っても」終局では「他我問題の壁」にぶつかってしまう。 還元した問いで表現すれば「物質宇宙(現実世界)は個としての私の存在に関係なく存在するのかしないのか ・・?」である。 さらに言えば「物質宇宙(現実世界)は私が死して後も存在するのかしないのか ・・?」である。
一元論的な独我論を提唱したオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)は「歴史が私にどんな関係があろう ・・ 私の世界こそが最初にして唯一の世界なのだ ・・」と自らの意識がこの現実世界をかく存在させている根拠だとした。
また弘法大師、空海はこの世の去り際に「太始と太終の闇」と題された詩文を遺している。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
空海は意味を語らずに逝ってしまったため、のちの世にさまざまな解釈を生むこととなった謎めいた詩文である。 私も過去幾度かその意味を考えてきた。 「
第191回
/ 生きる意識」、「
第308回
/ 空海の悟り」、「
第703回
/ 無常を観じて足を知る」等々。
ここに至って考えれば、あるいは「生の始めに暗く、死の終わりに冥い」とする空海の世界観(宇宙観)はウィトゲンシュタイン同様に自らの意識こそがこの世の存在理由であるとする思惟の極致に達したのではあるまいか ・・ つまり、「生まれる前に宇宙はなく、しかして死して後に宇宙はない」ということを ・・ そして、そのことを三界の狂人であり、四生の盲者である「我々人間は知らない(識らない)」ということを ・・・。
聖徳太子が語ったと言われる「世間虚仮 唯仏是真(※注1)」を、空海はかくこのように解したということであろうか ・・・?
(※注1)「世間虚仮 唯仏是真 (せけんこけ ゆいぶつぜしん)」
この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるという意。 聖徳太子の言葉と伝えられている。 太子の死後、妃の橘大郎女(たちばなの おおいらつめ)が中心となり、太子追悼のために天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)を織らせたが、この言葉はそのなかに記されている。
2015.09.14
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