哲学者、ニーチェが目指したものは「超人」である。 人間を超えた人間である。 第920回で描いた岸京一郎にしても、また
第921回で描いた空海にしても、目指したものはこの「超人」である。 空海が嘆いた「三界の狂人は狂せることを知らず」という迷妄せる人々を、ニーチェは自著「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で「末人」と呼んだ。 末人の様相は、第636回
「末人」で描いている。
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だがその末人を脱して超人を目指すことは人生に多大な困窮と危険をもたらすこともまた事実である。それはニーチェがたどった人生が証明している。その危険の様相を彼は以下のように書いている。
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・・・ 怪物と闘う者は
その過程で自分自身も怪物になることがないよう気をつけねばならない 深淵をのぞきこむとき その深淵も こちらを見つめているのだ ・・・・
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ニーチェ哲学の研究者で盟友でもある関西学院大学教授の宮原浩二郎君もまた「ニーチェを研究することはそれなりの覚悟がいる」と述べている。 その覚悟とは超人への道が人間をも破綻させてしまいかねない危険をともなうことの自覚である。
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その破綻の様相を、第665回
「君の歌は破綻していない」で、ニーチェが得意としたアフォリズムを使って、私は以下のように描いた。
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かって関西学院大学社会学部で教授をしている宮原浩二郎君(あえて君というのは彼は教授と言われることを好まないため)と松本市にある、小さなスナックで飲んだ時のことである。その頃はまだ日本経済も活気に満ちていて店内は空席がないほどに繁盛していた。
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カウンター席で飲んでいた私たちの隣席では少々酩酊状態の青年たち3人がカラオケで気勢をあげていた。その内の1人の歌に対して宮原君が「君の歌は破綻していない」と言ったのである。言われた当人は目を丸くしていたが、しばらくしてまんざらでもない表情を浮かべた。
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彼の歌は右にふらふら、左にふらふら、行きつ戻りつ、あたかも断崖絶壁の稜線をかろうじて渡っているような危うさであったが、決して足はふみはずさないものであった。さらにその乱調子が歌唱に独特な情感を醸し出し、いうなれば「聴かせる歌」となっていた。その状況を宮原君は「君の歌は破綻していない」と評したのである。
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破綻しているかいないかは「重要なポイント」である。奇才ビートたけしの過激なつぶやきは破綻しているようで決して破綻していない。名だたる政治家の整然たる演説は破綻していないようでまったく破綻している。私のような人跡未踏の荒野を拓く開発型の人間にとっては、この破綻しているか否かは「生命線」である。時としてそのぎりぎりを歩かなければならないが破綻してしまっては何もならないのである。もちろん宮原君もその線上を歩いている者である。ゆえに教授は「君の歌は破綻していない」という最高の讃辞を彼に授与したのである。
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老婆心ながら付け加えておくと、「破綻」と「矛盾」は似て非なるものである。それは矛盾していても破綻していないということもあれば、矛盾していなくとも破綻していることがあるからである。つまり、破綻とは、矛盾という論理性をも超えた、思考中枢の本質的概念にもとづいているのである。
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勿論、超人を目指した者たちはその危険の意味を充分に自覚している。 だがそれでも「宇宙の天秤」を人生の指針に据えたのは、なにより「自らが真実と納得できる人生を生きる」ことが、生涯を賭けるに価する「最高の価値」であることを確信していたからに他ならない。 その孤高の風景を、第421回
「遙かな旅人」で描いている。
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