世の中の間違いに付き合う正当性などどこにもない。 それは前回(第920回)で登場したテレビドラマ「フラジャイル」の主人公、岸京一郎の言うとおりである。そのようなものに付き合っているとあたら貴重な人生を虚しく消耗してしまう。間違った人生をよかったというような人はそうはいない。この世は繰り返しのきかない1回限りのものであってみればその正誤は明らかである。
|
おそらく弘法大師、空海もまた岸京一郎と同じであったであろう。 四国、讃岐から青雲の志を抱いて奈良の都に出てきた青年空海が見たものはご都合主義的な処世術に汲々とする官僚や学生の姿であった。 なぜこのように間違った生き方を日々繰り返しているのか
・・? 正しい生き方とは何なのか ・・? 空海の落胆と疑問はそこにあった。
|
以降、その解を求める旅が始まる。山野を彷徨し深山幽谷に分け入る日々を続けたが、その解を見いだすことはできなかった。 だがある日、運命を変える経文の断片に出逢う。それは久米仙人の逸話がのこる奈良橿原の久米寺でのことであったという。寺の宝塔内でその断片を見いだした空海は飛び上がらんばかりに驚喜した。やはり自分と同じ疑問を抱き、ついにはその解に行き着いた者がこの世にいたのである。 その経文の断片とは密教の中核をなす大日経の片鱗であった。空海は読んだ刹那に密教の何たるかを感得したと言われる。 後日、空海は経文のすべてを求めて唐に渡ることになるが、その消息は本論を外れるのでここでは割愛する。
|
結論から言えば、空海が求めていたものとは「即身成仏」である。 つまり、「仏として生きる方法」である。 他方、それまでの仏教(顕教)が目指してきたものとは「仏になるための方法」であった。 空海の英知は、仏になるための方法をいくら究めても、結局は「生きられない」ことを見抜くとともに、それを確信したのである。 空海もまた相対的な「人倫の天秤」ではなく、絶対的な「宇宙の天秤」を求めたのである。 空海のその信念は生涯に渡って変わることはなかった。 ゆえに空海は弘法大師として間違った世の中を導く灯台のあかりの如くに輝き続けたのである。
|
だがその空海でさえ、死に臨んで「太始と太終の闇」と題する詩文の中で、間違った世の中の迷妄はかくのごとく深いという諦念にも似た嘆息をもらしている。
|
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し |
< 第922回 「ツァラトゥストラはかく語りき」へ続く
>
|
|