空海は思惟世界の超人である。
彼は未だ青年僧であった頃、各地の深山幽谷で厳しい修行を敢行した。その修行の中で思惟による人間の実存性に覚醒したのではなかろうか。このような覚醒は机上論理をいくら追求しても得られるものではない。思惟とは言葉で表現できない抽象的ディオニュソスなのである。
空海の思想の特徴は「即身成仏」である。
人間は生まれながらにして、すでに完全な「仏」であり、であるから「人間はこの世で仏として生きればよい」と説く。
空海の対極は最澄であるが、最澄の思想は完全な「仏への道」を教える。人間は生まれながらにしては「不完全」であり、それゆえ人間は不断の修行により、身を修め、完全な仏に成るために、刻苦勉励せねばならないと説く。
最澄の説は、前項で述べた「記憶世界」に好印象を遺そうとする殉教者の生き方に相似し、どこか現代人の人生を暗示している。最澄の思想は、遺された人々の記憶の世界では永遠性を実現できるであろうが、自己人生の実存性は実現できない。
空海の説は、自身が完全なる仏であり、その自身の「思惟世界」で実存性が実現され、有と無の連続性が確立されている。
空海の遺した「太始と太終の闇」という詩文は、彼がこの自身の実存性と連続性を実現していたことを如実に物語っている。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
無の世界である思惟世界の意味を知らない我々人間は、三界の狂人のごとくであり、四生の盲者のごとくであると痛打する。
抽象的な無の覚醒は、言葉をもってしては不可能であり、彼にしてみれば、もはやこのような痛言をもってして、叱咤激励する以外に、他に方法がなかったのであろう。
思惟世界の超人、空海からすれば、記憶世界に埋没している我々が日常抱く、こだわりや、制約からは、遙かに心身脱落していたであろう。
また、目くそ鼻くそを笑うたぐいの価値観で、一喜一憂する我々の人生に対して、何と浅薄で、こっけいなものと見えていたであろう。
思惟世界において、連続的実存性を確立した彼にとって、この世のすべては、自身の支配と、制御下に在り、完全な自在無碍を獲得していたように思われる。
空海の人生における、無への回帰は「定」に入ることによって成された。定に入るとは、生きながら仏に成ることを言う。彼は、高野山、奥の院で徐々に穀物を断ち、自身の肉体を消滅させていった。弟子たちは、泣きながら翻意を願ったが、彼は敢然として、無に帰って行ったのである。
自身の意志で、誰も連れずに、ひとり黄泉の国へ旅立つことは、我々凡人からすれば、強烈な寂寥感であろうと考えてしまうが、彼にしてみれば、無の世界こそが、自身の「ふるさと」であったはずであり、歓喜と、あこがれと、安堵の思いに満たされての旅立ちではなかったかと推量される。
そしておそらく、「それでは皆さん、いつかまたどこかで・・」という別離再会への思いこそ、この世から、無の世界に回帰して行く、空海が最も遺したかった、我々へのメッセージではなかったか・・と思われる。 |