未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
不確定性原理の探求(1)〜量子の2重性
「こころの不確定性原理(
第884回
)」を読み返していて大きな視点の欠落に気づいた。「不確定性原理」とは、量子の「位置」と「運動量」の2つを同時に高い精度で確定することはできず、片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がってしまうという原理であるが、どうやら不確定という言葉に惑わされてそれ以上の探求を回避してしまったようである。
不確定とは便利であるとともに、はなはだ曖昧な言葉でもある。それは政治家や官僚が多用する「善処します」、「遺憾に思います」等々の言質に通ずる便利さと曖昧さである。善処するとは善処するとも善処しないともとれるし、遺憾に思うとは謝っているのか謝っていないのかはなはだ不明確である。ともに言葉に惑わされてそれ以上の追求を回避してしまうことは「不確定」と同じである。
不確定性原理における量子の「位置」と「運動量」の「2つを同時に高い精度で確定することができない」とは、物理的表現で言えば、「2つを同時に高い精度で観測できない」ということである。さらに「片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がってしまう」とは、「片方の観測精度を上げようすれば、もう片方の観測精度が下がってしまう」ということである。
言葉の修辞を排除して、さらに簡潔に還元すれば、不確定性原理は以下のように記述される。
量子の「位置」と「運動量」の2つを同時に観測することができず、位置を観測しようすれば運動量は観測できす、運動量を観測しようとすれば位置が観測できない。
もうおわかりであろうが、これは「量子の2重性」を述べた記述と「うりふたつ」である。量子は「粒子性」と「波動性」という「2つの性質」を兼ね備えている。その記述は以下のようである。
量子の「粒子性」と「波動性」の2つを同時に観測することはできず、粒子性を観測しようすれば波動性は観測できす、波動性を観測しようとすれば粒子性が観測できない。
両者の違いは同時に観測しようとしているものが「位置」と「運動量」であることと、「粒子性」と「波動性」であることの違いだけである。
何のことはない、「量子の不確定性原理」とはまた「量子の2重性」を描いたものであり、「量子の2重性」とはまた「量子の不確定性原理」を描いたものである。同床異夢のごとく、同じものを「別々の視点」から眺めているにすぎないのである。
さらに「量子の位置を量子の粒子性」に、「量子の運動量を量子の波動性」に同化すれば、おそらくは量子の位置と粒子性とは、量子の「位置エネルギ」を表現したものであろうし、量子の運動量と波動性とは、量子の「運動エネルギ」を表現したものであろうということになる。
不確定性原理の探求(2)〜時間の不確定性 /
第887回
へ続く
2015.07.25
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