Linear ベストエッセイセレクション
物質と意識の狭間
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皇帝の新しい心
 「不確定性原理の探求」では、あるときは粒子、あるときは波動とする「量子の2重性」は不確定性原理の別側面を描いたものであること ・・ その量子の2重性が同時に観測できないとすることから不確定性原理の核心が「時間の不確定性」にあること ・・ その時間の不確定性が「意識的観測」にゆだねられていること ・・ 等々を明らかにした。 かくしてたどり着いた帰結が「物質を追求してきた物理学が意識を追求する心理学に転化してしまう」という認識概念の根本を揺るがす世界観の大転換であった。 物質の不確定性原理とはまた、意識の不確定性原理でもあったというわけである。
 物質と意識の結びつきを研究した物理学者にロジャー・ペンローズ(イギリス1931年〜)がいる。 彼の代表作「皇帝の新しい心」は、発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。 ペンローズはその中で、意識を解明する鍵は、物理学の2大理論である「量子論」と「相対論」の狭間に隠されているとした。
 量子論の創始者ニールス・ボーア(デンマーク1885〜1962年)と相対論の創始者アルベルト・アインシュタイン(ドイツ1879〜1955年)以来、世界の物理学者はこの2つの理論をまとめた「統一理論」を導きだそうと懸命に試行錯誤を続けてきたがいまだにまともな解答を得るには至っていない。
 ペンローズの理論が特徴的であるのは「統一理論のあるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」という従来の物理学にはなかったアプローチ方法の違いにある。 彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる「物質と意識の結びつき」を解決する可能性を秘めている。
 現在、統一理論に最も近いとされている論とは「超ひも理論」である。 超ひも理論では10次元空間の中のひもの振動が宇宙のすべての物質とエネルギ、はたまた空間と時間まで生み出すとされている。 世界の著名な物理学者の多くは超ひも理論こそが「統一理論」であると考えていが、ペンローズは「ひも理論は正しいはずがない」と考えている。 彼は自他共に認めるプラトン主義者であり、科学者は真理を「発明」するのではなく、すでにあるものを「発見」するのだと考えている。 真理には「美しさ」、「正しさ」、「明快さ」を感じさせる「何か」が備わっているものであって、超ひも理論にはその「何か」が欠けているというのである。 確かに超ひも理論は量子論と相対論を数学的には矛盾なく説明してくれるが、現実空間の中で実験できるものでもなく、そもそも10次元のミクロのひもの振動が何を意味しているのかも不明である。 ペンローズは超ひも理論は物理学者が「発明」したしろものだと言いたいのであろう。
 20世紀初頭、ボーアとアインシュタインは互いの真理に対して激しい論争を繰り返した。 ボーアは量子論の観点から「夜空に浮かぶ月は見上げて見ているときには確かにあるが 俯いて見ていないときにはあるかどうかはわからない それは確率の問題だ」と主張した。 他方アインシュタインは「そんな馬鹿なことはない 見ていようが見ていまいが月は確かに夜空にある 神はサイコロをふってこの世界を創ったわけではない」と反論した。 その反論に対するボーアの回答は「神に向かってあれこれ指図するのはやめなさい ・・ 」というものであった。 この論争の決着は100年近くたった今なおさだかではない。 アインシュタインの価値観はペンローズに近く、真理は「発見」されるものであると考えていたに違いない。 アインシュタインはペンローズと同様に「統一理論のあるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」に徹底的にこだわったのである。
 確かに量子論ははなはだファジーで曖昧さに満ちている。 だがその論の意味はわからなくとも現実の胎動には見事に対応し絶大な効果をもたらした。 20世紀の科学技術の発展は量子論をぬきにしては語れない。
 ボーアにとってみれば、真理が「発見」されるものか、はたまた「発明」されるものか、どちらでもいいことであり、要はその真理が現実に効果的に対応するかどうかが、決定的に重要であると考えていたに違いない。 「頭が黒かろうが白かろうがネズミを捕る猫がいい猫 (※)」というわけである。 もし現代にボーアが生きていたら、10次元空間であろうが数学的に矛盾なく証明されたとする「超ひも理論」こそが「統一理論」であると主張するであろう。
はたして真理は「発見」されるのか、それとも「発明」されるのか ・・?
(※)頭が黒かろうが白かろうがネズミを捕る猫がいい猫 とは
 中国共産党最高指導者、ケ 小平(1904年〜1997年)の言葉。この言葉は文化大革命期に「主義と方針を持たない実用主義的観点」として毛沢東からも批判され、ケ小平失脚の理由とされたが、その後、ケ小平が復活、中国経済の「改革開放路線」が本格化すると、教条主義的な姿勢を排除するための号令として積極的に用いられ、広く知られるようになった。
自然は芸術を模倣する
 以下の記載は著書「時空の旅」に掲載されている「自然は芸術を模倣する」からの抜粋である。
 芸術家はまず彼らが生活している身の回りを取り囲む自然をながめ、それを模倣することから、その活動をスタートする。 例えば芸術家が絵を描く場合を考える。 ひとつの花を描こうとすると、まずその花をよく観察しなければならない。 花を支える茎の太さ、長さ、構造、また茎から葉がどのように生え、その大きさが全体に対してどのような割合であるのか。 また花を構成する花びらが、どのように重なり合っているのか等々。 それらの観察を通し1枚のカンバスに、その花を描き採る。 それが絵を描くことである。
 芸術家は実際に存在する花と1枚のカンバスに描き採られた仮想の花との間に介在している。 つまり、カンバス上の花は芸術家(人間)がいなければ存在できなかったわけである。 またカンバス上の花は芸術家の観察を通して描かれた仮想の花である。 そのようなものである以上、その芸術家の観察能力や鑑識眼、審美眼等によりカンバス上に現れた花はさまざまに変化する。 100人の芸術家がいれば100通りの花がカンバスに現れるのである。 その中のどれが実在の花を描き採ったのであろうか。 我々には判断のしようがない。
 これはなにも絵に限ったことではない。 彫刻においても同じことである。 どれが実在の美しい女性の身体を刻みだしたのか。 小説家はある出来事を言葉という手段を使って文章に現す。 そのどれが出来事の実体を本当に伝えているのか。 全ては仮想なのである。 さらに、これはなにも芸術家や小説家に限ったことではなく、人間の表現活動全般に言えることなのである。 物理学者は同様に自然を観察し絵筆とカンバスを使うかわりに数式を使い自然を表現するのであるし、音楽家は音符を使用する。 手段は異なるものの全て自然の実体を描き採ろうとし、表現しようとする人間の作業努力の活動なのである。
 我々はそのようにカンバス上に現れた仮想の花を見て、逆に実在の花を見ようとする。 その過程で、またも、人間の想像という仮想が作用する。 否定の否定は肯定であろうし、逆もまた真なり。 ひょっとするとこの過程で花の実在に到達するのかもしれない。
 般若心経に「色即是空、空即是色」という言葉がある。 色とは物のように形あるもの、つまり実在を意味する。 これが即ち空、じつは何もない実在しないものであるとするのである。 しかし、次ぎにこれを逆に打ち消す。 空つまり何も無い実在しないと思うと即ちそこに色、形ある物の実在があるというのである。 これが観自在菩薩が修行の先に到達した悟りであり、直感した認識であったというのである。 般若心経を貫く精神は、ただただ、このひとつに集約できると言っても過言ではない。 そして、それを左右するものは人間の心のこだわりであるとするのである。 砂漠で道に迷った旅人は飢えと乾きの状態でさまよい歩く。 このような時、夜の暗闇の中で水たまりを見つけた旅人は清水を飲むように、その水を飲む。 一夜明けて、光の中で見た水たまりは、清水どころか、ボウフラが浮かぶ腐った水たまりであった。 その時、もう旅人はその水を飲むことはできない。 昨日は飲めて、今日は飲めない。 水には変わりがないのであるが、そこに人間の認識が作用すると同じ水ではなくなるのである。 人が人を恋するのも同じである。 女性は世界に何億人といるのであるが、彼が恋したその女性はただの1人しか存在しない絶世の美女であるし、彼女が恋したその男性は、これまた1人しかこの世に存在しない勇敢な心やさしいヘラクレスなのである。 しかし、恋の夢から醒めた彼や彼女は、それが幻滅の対象に変化する。 彼や彼女の本質は変わってはいないのに彼らが心変わりをしたとたんに別の世界が現れるのである。 あると思うと無い、無いと思うとある、という般若心経の世界はこのようなことを述べているのであろう。
 話は横道にそれたが、要は、芸術家が自然(実在)をカンバスの上に現したり、音楽家が楽譜の中に現したり、小説家が文章の中に現したり、物理学者や数学者が数式として現したりすることは、みなこのような認識の作用の影響下にあるものなのである。 現された仮想の世界を見て我々はまた我々自身の認識の作用をもって自然(実在)を仮想する。 仮想の仮想は実在なのであろうか。 時として我々はどこかの美術館で見た1枚の絵の世界と全く同一の自然の風景に出会ったり、小説の中の出来事に実際に出会ったりすることがある。 それはまさに「自然が芸術を模倣している」ように我々には思える。 まさに「色即是空、空即是色」なのである。 であれば物理学者や数学者が記述した数式を自然は模倣して我々の回りを運行しているのであろうか?
 多分に勢いで書いた論考ではあるが、当時すでに「物質と意識の狭間」に向けて新たな地平を拓かんとする探求心の萌芽があったことが自覚される。 それから21年の歳月が経過したことになる。
発見か発明か
 本題に戻って「真理は発見されるのか それとも発明されるのか?」の探求である。
 著書「Pairpole」は物質宇宙を探求したものであり、プロローグでの「どうして我々人間だけが自然を、そして宇宙を理解し認識できるのであろうか?」という物理学者、アルベルト・アインシュタイン(ドイツ1879〜1955年)の問いから始まり、エピローグでの「なぜいったい、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という哲学者、マルティン・ハイデガー(ドイツ1889〜1976年) の問いに終わる思索の旅を描いたものである。
 その思索の旅を引き継いだ「知的冒険エッセイ」の中で描かれた「物質と意識の狭間」に関する代表的な素描を抽出すると以下のようになる。
 そこで描かれた世界とは物質宇宙を統御する自然法則(理論)が意識宇宙においても見事に等価的に成立するという不可思議な風景である。 それはまさに「自然は芸術を模倣する」ことの証を眺めるようであった。 そこでは「物質に意識が宿るのか それとも意識に物質が宿るのか?」の問いは、さらに姿形を変えて「意識が物質を発生させるのか それとも物質が意識を発生させるのか?」というより根本的な問いに還元されている。 ここまでくると冒頭に掲げた「真理は発見されるのか それとも発明されるのか?」まではあと1歩である。
 著書「Pairpole」は宇宙の内蔵秩序としての根源的対称性を描いたものでもあるが、それは宇宙の万物事象が対称に構成されているとする「予見」にもとづいている。 かかる予見からすれば対称に構成された物質世界と意識世界を統御する法則(理論)が一致することは理の当然であろう。 わかりやすく表現すれば「貴方が眺める物質世界は貴方が想う意識世界そのものであり、貴方が想う意識世界は貴方が眺める物質世界そのものである」ということである。 さらに還元すれば「物質世界は意識世界の鏡像であり、意識世界は物質世界の鏡像である」ということである。
 この帰結からすれば「自然は芸術を模倣する」といい、「物質に意識が宿るのか それとも意識に物質が宿るのか?」といい、「意識が物質を発生させるのか それとも物質が意識を発生させるのか?」といい、何の変哲なき日常茶飯の出来事のように観えてくる。 それはまた「真理は発見されるのか それとも発明されるのか?」においてもまたしかりである。
 これで課題は解決したかにみえるがそうはならない。 重要な視点が欠落しているのである。 「真理は発見されるのか それとも発明されるのか?」をさらに観察すれば「主語」が抜け落ちていることに想到する。 つまり、「誰が真理を発見するのか そして誰が真理を発明するのか?」という現象の主体者のことである。 言わずもがな、それは我々「人間」である。 すべては「人間あっての問題」なのである。
 物質と意識の狭間に介在する「根源的原因」とは空間でも時間でもなく「人間そのもの」である。
他我問題
 「物質と意識の狭間」の探求は紆余曲折を経て「人間そのもの」行き着いた。
 では「人間そのもの」とは「集団としての人間」なのか? それとも「個としての人間」なのか? 還元すれば、物質宇宙が「個としての私の存在に関係なく存在するのかしないのか?」である。
 経験からすれば身近な誰それが亡くなっても相変わらずに物質宇宙が存在するところをみれば、個としての私の存在に関係なく存在するかにみえるがそれでは証明にならない。 なぜなら私にとってみればその誰それもまた物質宇宙なのであって、私が誰それになりかわって意識することは不可能であるからである。 「他我問題」の壁である。
 他我問題とは他人の心をいかにして我々は知りうるかという哲学的な難題であり、結論から言えば「他人の心を直接に知る方法はありえない、なぜなら私は他者ではないからである」となる。
 はたして、物質宇宙と意識宇宙は、互いに関係なく「個別に存在」するのか、それとも互いの鏡像として「一体的に存在」するのか? この世は、「二元論」で記述されるのか、はたまた「一元論」で記述されるのか?
 「物質」と「意識」の狭間を解明することは、「皇帝の新しい心」を書いたペンローズが指摘したとおり、「量子論」と「相対論」を統一するがごとくに困難で難しい道のりを覚悟しなければならない。
 一元論的な独我論を提唱したオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)は数々の名言を残している。 以下はその幾つかである。
ウィトゲンシュタインの言葉
 歴史が私にどんな関係があろう、私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。 世界がどうあるか、が不思議なのではない、世界がある、ということが不思議なのだ。 太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である、すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない。 明日の朝がやって来るというのは、単なる予想にすぎない。
 世界の価値は、世界の外側になければならない、世界の中ではすべてはあるがままにある、そしてすべては起こるままに起こる、世界の中には、いかなる価値もない、仮にあるにしても、その価値にはいかなる価値もない。
 哲学を勉強することは何の役に立つのか、もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、哲学なんて無意味じゃないか。 哲学的混乱に陥っている人は、或る部屋の中に居てそこから脱出しようとしているが、しかしどうしていいか解らないでいる人に似ている、彼は窓から脱出しようとするが、窓は高すぎる、彼は煙突から脱出しようとするが、それは細すぎる、しかし、もし彼が振り向きさえすれば、ドアはずっと開け放されていたのだ、という事に気づくであろう。 全ての科学上の問いに、答えが得られようとも、自らの人生上の問いには、答えは出せないだろう、もちろん、そのときは、何も問いは残ってはいない、実は、まさしく、問いがないことが、答えなのである。
 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。 私の心の限界が私の世界の限界である。 主体は世界に属さない、それは世界の限界である。
 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

2015.08.28


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