Linear ベストエッセイセレクション
不確定性原理の探求
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量子の2重性
 ハイゼンベルクの「不確定性原理」とは、量子の「位置」と「運動量」の2つを同時に高い精度で確定することはできず、片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がってしまうという原理であるが、どうやら不確定という言葉に惑わされてそれ以上の探求を回避してしまったようである。
 不確定とは便利であるとともに、はなはだ曖昧な言葉でもある。 それは政治家や官僚が多用する「善処します」、「遺憾に思います」等々の言質に通ずる便利さと曖昧さである。 善処するとは善処するとも善処しないともとれるし、遺憾に思うとは謝っているのか謝っていないのかはなはだ不明確である。 ともに言葉に惑わされてそれ以上の追求を回避してしまうことは「不確定」と同じである。
 不確定性原理における量子の「位置」と「運動量」の「2つを同時に高い精度で確定することができない」とは、物理的表現で言えば、「2つを同時に高い精度で観測できない」ということである。 さらに「片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がってしまう」とは、「片方の観測精度を上げようすれば、もう片方の観測精度が下がってしまう」ということである。
 言葉の修辞を排除して、さらに簡潔に還元すれば、不確定性原理は以下のように記述される。
 量子の「位置」と「運動量」の2つを同時に観測することができず、位置を観測しようすれば運動量は観測できす、運動量を観測しようとすれば位置が観測できない。
 もうおわかりであろうが、これは「量子の2重性」を述べた記述と「うりふたつ」である。 量子は「粒子性」と「波動性」という「2つの性質」を兼ね備えている。 その記述は以下のようである。
 量子の「粒子性」と「波動性」の2つを同時に観測することはできず、粒子性を観測しようすれば波動性は観測できす、波動性を観測しようとすれば粒子性が観測できない。
 両者の違いは同時に観測しようとしているものが「位置」と「運動量」であることと、「粒子性」と「波動性」であることの違いだけである。
 何のことはない、「量子の不確定性原理」とはまた「量子の2重性」を描いたものであり、「量子の2重性」とはまた「量子の不確定性原理」を描いたものである。 同床異夢のごとく、同じものを「別々の視点」から眺めているにすぎないのである。
 さらに「量子の位置を量子の粒子性」に、「量子の運動量を量子の波動性」に同化すれば、おそらくは量子の位置と粒子性とは、量子の「位置エネルギ」を表現したものであろうし、量子の運動量と波動性とは、量子の「運動エネルギ」を表現したものであろうということになる。
時間の不確定性
 次なる課題は量子の位置と運動量の2つを「同時に高い精度で確定」することはできずというときの「同時」という言葉である。 「同時に量子の位置と運動量の2つを観測できない」、「同時に量子の粒子性と波動性を観測できない」というときの「同時」とは何を意味しているのであろう。
 観測を単純に「目で見ること」として考えれば、2つの対象物に対して同時に焦点を合わせることは不可能である。 細部に焦点を合わせれば全体はぼけてしまうし、全体に焦点を合わせれば細部がぼけてしまう。 だが同時という制約を解除すれば、それは容易に可能となる。 時をおいて別々に焦点を合わせれば、細部も全体も見ること(観測)は可能である。
 つまり、不確定性原理の核心とは、この「同時」という時間における不確定性である。 「時間とは何か」はこの「知的冒険エッセイ」で幾度となく論じてきたことであるが、いまだに確たるものを得るには至っていない。 そもそも時間は存在するのかしないのか ・・ すでにそこにおいて不確定である。 そのような不確定なパラメータ(係数)で記述された不確定性原理が不確定であることは、もとより当然なのかもしれない。 ではかくなる不確定な時間で語られる「同時」とはいったい何を意味するのか。
多世界宇宙解釈
 「時間の不確定性」では時間の同時性について探求した。 解決の糸口は次なる「多世界宇宙解釈(パラレルワールド)」に引き継がれる。
 パラレルワールドに関しては前掲の「パラレルワールド」で詳述したので記述は割愛するが、そこでは量子の2重性(粒子性と波動性)の解釈として平行宇宙が論じられている。 要点のみ言えば「量子は観測が行われるたびに、次々に平行宇宙へと分岐し続ける」ということである。
 この解釈を不確定性原理に援用すれば、「量子の位置(粒子性)と運動量(波動性)の2つを同時に観測することができない」とする記述における「同時」とはすなわち「宇宙の分岐点」ということになる。
 さらにどちらかの宇宙を観測したとたん、他方の宇宙が観測できないとは、2つの宇宙の境界には科学理論が破綻してしまう「特異点」が横たわっていることを示している。 互いの宇宙を「同時にのぞき見ることができない」のはそのためである。 どちらの宇宙を見るかは観測次第である。 いうなれば「いずれの宇宙を観測するか」という「きっかけ」次第である。 さらに言えばそのきっかけとは「いずれの宇宙を見たいか」という「あなたの意思」次第ということになる。
 それはまた物質を追求してきた物理学が意識を追求する心理学に転じる重大な分岐点であるとともに、その分岐点こそ「多世界宇宙をつなぐワームホール(時空トンネル)」の入り口なのかもしれない。
 では「同時とはすなわち宇宙の分岐点」とは何を意味しているのか。
 宇宙の分岐に不可欠な行為とは「観測」である。 であれば観測を時間に置きかえることに特段の不都合は生じない。 「観測=時間」という等価原理である。 観測の継続とは新たな宇宙への分岐の継続であり、分岐に応じた宇宙が次々に発生する。 おそらくはこの「連続したメカニズム」そのものが「時間の正体」であろう。
 そしてまたこのメカニズムを起動する観測とは「あなたの観測」であることも忘れてはならない。 あなたが観測を継続するかぎり、このメカニズムは稼働し続ける。 時間が流れるという感覚は、あなたの観測の母体である「あなたの意識の流れ」そのものをあらわしている。 逆に意識の流れが停止すれば、時間の流れもまた停止するであろう。 であればあなたの意識の流れをゆるやかにして、時間の流れをゆるやかにすることもまた可能である。
 「不確定なこころの時代」、「こころの不確定性原理」、「危うきに遊ぶ」で描かれた現代人の不確定なこころとは、かくなる物質宇宙と意識宇宙の狭間に顕現した時空の「ゆらぎ」に帰因した未来に向けての相克と葛藤なのであろう。

2015.07.28


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