やはり「いかに愉しく生きるか」を追求していくと、再び「何のために生きるのか」という問いに戻ってしまう。いかに生きるかを考えずして、いかに愉しくというアイデアを浮かべることは困難である。その理由はいかに愉しくの主体が「自分自身」であるからに他ならない。誰かから、あるいは各種の情報機器から「あなたの愉しみはかくかくしかじかですよ」と言われても、「はいそうですか」と納得できるほど人は単純ではない。愉しみとは自らが愉しいかであって、あなたが愉しいかではない。あなたの愉しみをもって、わたしの愉しみとすることもないではないが、続けると精神的な無味乾燥状態に陥ってしまう。
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