ようようにして訪れたのは先日のことであり、季節はずれの雪が舞い降りたあとに到来したよく晴れた寒い秋日の午後であった。地名としては知っていても、かっての追分宿の街区を歩くのは初めてであった。さしもこの時期になると観光客の往来も絶えていて、街道は静かなたたずまいを漂わせていた。冠雪を頂いた浅間山が西日を浴びて間近にせまっている。その眺めは浅間山は追分からのものが秀逸であることを古今に渡って万人に認めさせるに充分なものであった。堀辰雄を恋い慕った詩人、立原道造は東京帝国大学工学部建築学科を卒業(1937年3月)するにあたって「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」と題した制作を提出しているが、彼の構想もまたこの追分山麓を思い描いてのものであったに違いない。道造はそれから2年後の1939年2月に第1回中原中也賞受賞の栄誉に輝いたのも束の間、3月29日に肺結核の病状が急変しこの世を去っている。満24歳8か月のあまりに短い生涯であった。
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