Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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時空のめぐり逢い
 ドラマの現場、例えば映画のロケ地などを訪れたときに感じるあの独特な「寂寥感」とはいったい何であろうか。
夏草や 兵どもが 夢の跡
 芭蕉が「奥の細道」の旅で、元禄 2年(1689年)の夏、曽良ととも平泉の高館を訪れたときに詠んだ句である。高館は中尊寺の東南にある丘陵で、判官館または衣川館と呼ばれ、源義経が藤原秀衡を頼って下向した時に居城したところであり、秀衡の子泰衡によって家臣や妻子もろとも討たれたところでもある。 芭蕉は義経主従の「史実」を思い描き、人の世の興亡を儚んでこの句を詠んだのであろうが、見方を変えれば、その史実とは義経主従が演じた壮大な「歴史ドラマ」とみることもできる。
 芭蕉が感じた寂寥感はまた映画のロケ地を訪れたときに感じる寂寥感に相似する。かくなる寂寥感の本質とはドラマを演じた役者(登場人物)が消え去っても、舞台だけはそのまま変わらずにそこに存在している公正無比なる事実によって引き起こされた茫漠たる哀感であろう。だが人はその茫漠たる哀感の中で、1対1で歴史と、あるいはドラマと、めぐり逢う機会が与えられる。時空の彼方へ消え去った役者(登場人物)を、再び「刹那の舞台」に蘇らせることが可能となるのである。芭蕉は義経、弁慶を目の前にして語ることができたのであり、同様に我々もまたドラマの主人公と直に逢って話すことができるのである。そのためには舞台となった現場(ロケ地等)を訪れるまえに、史実であれば事績をよく知る必要があり、ドラマであれば何回も見る必要がある。
 かくして遭遇した「時空のめぐり逢い」において「実在した史実」も「創作されたドラマ」も本質的に何ら異なるところはない。
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