Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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南無阿弥陀仏に思う
 長い間、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるという法然の教えがよく理解できなかったのだが、ようやく答えを得たような気がする。
 日本の仏教は奈良仏教を出発にして、最澄、空海の平安仏教を経て、法然、親鸞、日蓮、道元、栄西らの偉才がキラ星のごとく輝いた鎌倉仏教に至ってその最盛期を迎えた。その後800年余に渡って彼らを凌駕する仏教者は残念ながらいまだ現れてはいない。鎌倉仏教の特徴は、この世の不条理はいかんともしがたく、もはや死後の浄土世界にしか救いはないとする浄土信仰にある。
 浄土に行くにはどうしたらよいのか ・・?
 鎌倉仏教を支えた彼らが目指したものとは浄土世界に行くその方法の確立であった。その中から念仏が登場したのであるが、念仏には「観想念仏」と「口称念仏」と呼ばれる2つの方法がある。観想念仏とは極楽浄土の世界を心の中で思い描き、主である「阿弥陀様の姿をありありと想像する」ことである。口称念仏とは文字どおり口に出して「阿弥陀様お願いしますと強く言う」ことである。観想念仏は瞑想に近く、精神の集中と意識の鍛錬を必要とし、凡夫の方法としてははなはだ難しい方法である。それに比して口称念仏は「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えればよく、婦女子、凡夫をもってしても容易に可能な方法である。法然の偉大さはあらゆる民衆をもれなく救おうとするその比類無き高い精神性にある。そのためには誰もができる口称念仏を極楽往生への唯一の方法として凝縮させ、それを支える確固たる宗教体系を確立させたのである。それすなわち「浄土宗」である。
 南無阿弥陀仏の南無とはサンスクリット語(梵語)のナームの漢訳であり、帰依するという意を有する。つまり、阿弥陀様に従いますという意味になる。同様の使い方として日蓮が創始した日蓮宗が唱える「南無妙法蓮華経」がある。同様に意味は法華経に従いますとなる。南無阿弥陀仏は「お念仏」と呼ばれ、南無妙法蓮華経は「お題目」と呼ばれる。お念仏、お題目は繰り返し何回も唱えることで全身全霊に刷り込まれる。換言すれば「自らに強く言い聞かせることで目的を実現する意識メカニズム」である。
 以下は蛇足である。アニマル浜口氏が連呼する「気合いだ! 気合いだ! ・・ 気合いだー!」も同様の意識メカニズムを使った口称念仏に近いものである。また、先日引退した角界のロボコップこと高見盛関が行う、立ちあい前の独特のパフォーマンスは観想念仏に近いものである。心の中で強い自分を思い描き、眼をドングリのようにして何度も何度も気合いを注入しているのである。アニマル浜口氏も高見盛関も真剣そのものである。自らの精神と1対1で対峙し、自らの心に言い聞かせるためには、かくなる掛け値なしの真剣さが、なにより大切なのである。
 法然は言いたかったのであろう。「南無阿弥陀仏は口先で唱えてはなりません、全身全霊をもって唱えなさい、しからば必ず極楽浄土へ往生します」と ・・・。
(追記) 現代の口称念仏の雄はアニマル浜口氏、観想念仏の雄は高見盛関として、では口称念仏と観想念仏を合体させた「念仏の王者」は誰であろうと考えたとき、「芸術は爆発だ!」と叫び、両眼をカッと見開いて飛びかからんばかりに闊歩した岡本太郎氏の風貌が思い浮かんだ。岡本太郎氏のゆるぎない「パフォーマンス(念仏)」はアニマル浜口氏と高見盛関の合体のうえに王者として位しているのである。
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