Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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信玄と謙信(3)〜決戦川中島
 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の戦いは、12年間の間、都合5回に渡って行なわれた。永禄4年(1561年)の第4回の川中島の合戦が最も激戦であり、信玄41歳、謙信32歳のときであった。
 謙信は1万8000の大軍を率いて春日山城を出撃、信濃の善光寺に集結した。ここに後詰として5000の兵を残し、自らは1万3000の兵を率い、雨宮の渡しから千曲川を渡って妻女山に陣を張った。一方、信玄は1万6000の兵を率いて海津城に入った。
 9月9日の夕暮れ、海津城から立ちのぼる炊煙に信玄の奇襲作戦を看破した謙信は、妻女山頂に大篝火を焚き、旗幟を立て、上杉軍が陣取っているように偽装し、亥刻(午後10頃)を待って妻女山を下り、千曲川の雨宮の十二ケ瀬、狗ケ瀬を渡って八幡原へと軍を進めた。史書「日本外史」を著した江戸期の儒学者、頼山陽は、この時の情景を「鞭声粛々夜河をわたる 暁に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一剣を磨く 流星光底長蛇を逸す」と詠んだ。
 一方、信玄は別働隊1万2000を子の半刻(午前1時頃)に海津城から妻女山へ向かわせ、信玄自らは弟信繁、嫡男義信をはじめ8000の兵を率いて八幡原に布陣し、夜の明けるのを待った。世に有名な「啄木鳥(きつつき)戦法」である。
 この戦法は武田軍別働隊が妻女山を奇襲し、謙信が八幡原に出てきたところを、信玄率いる武田軍本隊が待ち伏せて、挟み撃ちにし、全滅させようというものであった。
 しかし、さすがは毘沙門天の化身、軍神謙信は武田軍の作戦の裏をかいて、八幡原に布陣し、濃霧の晴れるのをじっと待っていたのである。
 午前7時、八幡原にたちこめていた霧が晴れた。
 信玄が採った陣立ては「魚鱗の陣」である。魚鱗の陣とは、上から見ると縦に長い紡錘形、魚の形をした攻撃型の陣立である。「風林火山」の軍旗を背にした信玄は、静寂の霧の中から、おびただしい「毘」の軍旗が忽然と現われたとき、かかる作戦の破綻に少しも狼狽することなく、即座に軍扇を横に振った。「鶴翼の陣」への陣立ての変換である。鶴翼の陣とは、鶴が翼を広げたときのように横に長い陣形であり、敵軍の攻撃をかわして包み込もうとする守備型の陣形である。
 謙信の採った陣立ては「車掛の陣」である。車掛の陣とは、軍勢を車輪が回転するようにグルグル移動させながら、常に新手を繰り出しながら絶え間なく猛攻を繰り返すという攻撃型の陣形である。
 「毘沙門天」と「風林火山」の激突は遂に火蓋を切った。
 戦闘は上杉軍が優勢に進めたが、乱戦となった機を逃さず、紺糸威の鎧の上に萌黄緞子の胴肩衣を着し、白手巾で頭を包み、放生月毛の馬に乗った謙信は、三尺の小豆長光の太刀を振りかざして、ただ一騎、信玄の陣営に突入し、電光石火のごとく三太刀信玄に斬りつけた。信玄は太刀を抜く間もなく、軍扇で謙信の太刀を防いだが、三の太刀は信玄の肩先を斬りつけ、信玄あわやと思われたとき、駆けつけた中間頭の原大隅守が槍で馬上の謙信をめがけて突き上げた。一瞬かわされ槍先は馬の尻を刺し、驚いて跳ね上がって駆け出したことにより、謙信は信玄の首を逸し、信玄は謙信の必殺の太刀から免れたのである。 後世に語りつがれた謙信と信玄の「一騎打ち」である。
 激闘数刻、妻女山に向かった武田軍別働隊がようやく八幡原に到着して戦況は逆転、謙信もこれ以上の戦闘続行は不利とみて善光寺に引き上げた。
 戦闘での死傷者の数は、上杉軍の死者3400余人、負傷者6000余人、武田軍の死者4600余人、負傷者1万3000余人であったという。その数はただちに信用できないが、戦史にのこる激戦であり、聞きしにまさる死闘であったことには間違いない。
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