Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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私とコンピュータ
 私が見る「意識の地平」とはどのようなものであろうか ・・? その意識の地平で構築された、世界風景は私の生活世界であり、かつまた私の居場所である。
 哲学者フッサールは、我々が見る世界が「実践的関心」によってもたらされると言う。実践的関心とは、例えば技術者である私を例に引いて述べれば以下のようになる。
 私の机は技術を考えるにふさわしい形を成しており、引き出しの中には各種の定規や、コンパスが入れられており、私が使う用紙は作図に便利な升目の方眼用紙であり、机の横には各種の技術計算や、技術情報収集に使用されるパソコンが置かれ、その横には各種の技術書籍が収納された本棚があり ・・等々。 これらの品々は、私が技術者として、この居場所で、生活を実践しようとする意識の関心によって、用意され、配置された品々(物体)で、構成された世界である。もし私が小説家であったならば、その小説家を実践しようとする私の意識の関心によって用意され、配置された品々(物体)で、構成された世界となろう。
 フッサールの実践的関心の意味を考えれば、彼は「意識が、物質を発生させる」という視点で宇宙をとらえていることが解る。それまでの哲学は、常に主観と客観の対立概念で、実在をとらえようとしていた。主観的実在を証明するために、客観的基準を使い、その客観的実在を証明するために、主観的基準を使うという方法である。この構図は紙の実在を証明するに、「紙の表は、裏の反対で構成」されており、「紙の裏は、表の反対で構成」されていると述べているに等しい。これでは紙の実在を証明したことにはならない。単なる詭弁を弄しているに過ぎない。物事の実在を主観と客観の対立概念で論ずる方法は、結局、堂々巡りの論理に行き着いてしまう。
 この堂々巡りの論理に陥らぬことを欲するならば、主観的実在を証明するにおいて、客観的基準のみを使用して証明し、客観的実在を証明するにおいては、主観的基準のみを使用して証明するしかない。
 般若心経でいう「色即是空 空即是色」のように、「在ると思うと無い、無いと思うと在る」というような宇宙解釈は、宇宙の実在を証明したことにならないということである。無いという実在を証明しようとするならば、在るという認識のみを使用して述べるべきであり、逆に在るという実在を証明しようとするならば、無いという認識のみを使用して述べるべきである。在ることは無いこと、無いことは在ること、という述べかたは、単なる詭弁に過ぎず、結局は、在るも無いもともに証明されていないのである。
 フッサール現象学は、主観のみを使って客観を述べていることにおいて、それまでの哲学とは一線を隔している。だが、またその思考方法こそが、従来哲学の視点に立つ多くの研究者から独断的な「独我論」と批判される理由でもある。しかし、彼らがフッサールの主観による客観の実在証明を否定するならば、今度は逆に、彼らは客観による主観の実在を証明しなければならない。簡潔に言えば、客観的な科学的方法論をもって、自己のもつ主観的実在を証明することである。自己を細切れにして、科学的な測定と、観察と、分析を、行ったとしても自己の主観的実在を証明できるとは思えない。それを為さずして、ただ単に批判してみても、彼らが主張する、ある時は主観、ある時は客観という方法論での反論は、はなはだご都合主義的な「たわごと」でしかない。
 フッサールは、その堂々巡りの論理矛盾から、決然と袂を分かち、「宇宙は確かに在る」という自己の直観的な主観を、実在証明の基盤に据えたのである。
 この方法論は、またライプニッツが提示した相対的宇宙構造のアプローチと同じである。我々は個々別々な相対的宇宙に存在し、我々が全体宇宙とするものはその無限の相対的宇宙が積層、複合化したものであり、唯一の絶対的宇宙は人間意識の仮想上にしか存在しないという説である。そして、なぜに個々別々の相対的宇宙に存在する個々人が、共通の認識を持ち得るのかに対し、「予定調和」という概念を持ち込んだのである。ライプニッツが述べた「相対的宇宙」は、フッサールが述べる主観意識の実践的関心が構築した「生活世界」にあたる。
 私が存在する、私の「相対的宇宙」は、また私の主観意識が構築した「生活世界」であり、私の意識の地平である。私が見る「相対的宇宙の風景」は、また技術者である私の実践的関心が構築した「生活世界の風景」である。この風景こそが、私の周りに広がる宇宙の実在であり、その宇宙風景が夢ではなく、今ここに、疑いなく確かに在る、と確信させるにたる信憑性を、私の原的直観に与えるのである。
 私の自由意思と言う場合、その自由とは、周りに広がる相対的宇宙や、生活世界の実在に対して、疑い得る可能性の自由を言うのである。つまり、そこに石がある、という実在を疑い得る自由である。その石が、張り子の石であるかもしれず、プラスチックの石かもしれず、粘土細工の石かもしれないと疑う自由を、私はもっているのであり、その石を持ち上げ、重さを測り、砕いて中を観察し、いよいよ疑うことができない時に、「その石が実在する」としか考えられないという確信に至るのである。我々が存在する相対的宇宙(生活世界)は、常に我々の意識が疑い得る自由をもった世界であり、この「疑い得る自由意思」こそが、我々の「現実感」を裏打ちしているのである。
 この疑い得る自由意思は、コンピュータには存在しない。 コンピュータは、客観的な科学の世界では、絶大な有効性を発揮するが、ここで述べた私の主観的な相対的宇宙(生活世界)では、まったく用をなさないしろものである。 この疑い得る自由意思の存在こそ、私とコンピュータの根本的で、また決定的な、違いなのである。
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