Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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意識の地平
 この現実世界の森羅万象、あらゆる存在は「居場所」をもつ。
 鯨は南氷洋に、リスはとある栗の木に、コオロギはとある草むらに、それぞれ居場所をもっている。同様に、それぞれの人間にも居場所がある。ブッシュ大統領はホワイトハウスに、小泉首相は首相官邸に、居場所をもつ。
 私にも今ここという場所に、居場所をもっている。この場所は、私のみの居場所であり、他の誰の居場所でもない。ホワイトハウスはブッシュ氏の居場所であり、私の居場所ではない。
 これはあたりまえと言えば、あたりまえのことであるが、よく考えると非常に特異なことでもある。
 私はかって荘子の「無用の用」の思想に感銘を受けたが、それはこの世に存在するいかなるものも、無用なものなどはなく、すべてが有用であるとする思想の中に、この「自分の居場所」という意味があったからである。逆説的に言えば、この世のあらゆる存在が「自分のみの居場所」をもつことが、「無用の用」の真意でもある。
 同様に、意識にもそれぞれ居場所がある。
 私という物質的身体の居場所は、今ここの場所であるが、同様に私の意識的精神の居場所もまた、今ここにある。物質的存在の居場所は、地球儀や、世界地図や、最近では衛星通信を使用したナビゲーションシステムで、知ることができる。しかし、意識的存在の居場所は、どのように知ることができるであろうか ・・? 意識の地球儀や、ナビゲーションシステムなど聞いたことがない。
 私の意識のこの居場所から眺められる世界風景は「意識の地平」と表現される。意識の地平とは、私が今までに知り得た知識や、今この時にもたらされる情報によって、私の意識が構築した「世界風景」である。
 かって人類が眺めたであろう意識の地平とは、いったいどのようなものであったのであろう ・・? 中世の人々の意識の地平で構築された世界風景とは、人跡未踏の森には怨霊が住み、丘の上の華麗な城塞には高貴な人が住み、大海原の果ては断崖絶壁の奈落の底で構成されていた。
 近代人の意識の地平はその世界風景を「時間と空間」に還元させてしまった。そして、その時間と空間を、さらに還元するために「測定器」を開発し、この測定器により、怨霊が住んでいた森を10Km平方という単なる面積構造に、丘の上の城塞に住む人を身長170cmという単なる人間構造に、大海原の果てを単なる連続した球体に還元してしまったのである。
 望遠鏡の開発は、古代の人々が神の怒りと畏れた日食や月食を、単なる太陽と地球と月の軌道の重なりに還元し、アポロ宇宙船の開発は、かぐや姫が帰って行った「お月さんの世界」を単なる空虚な砂漠の世界に還元したのである。
 そして今、我々現代人は発展した科学文明によって得られた測定結果(観測結果)からの知識や、情報によって構築された意識の地平を眺めているのである。意識の居場所を確定させる「地図」とは、換言すれば、これらの測定結果(観測結果)からの知識や、情報の集積によって描かれた「科学的認識図(科学的地図帳)」ということになる。我々はこのようにして描かれた科学的地図帳により、自己意識の居場所を確定しているのであるが、近年の科学文明の閉塞感はこの意識地図帳が、本当に正しい地図であるのかどうかの疑いを提起している。
 19世紀以降の科学文明の発展はめざましく、その結果として、人類は測定器で測られ、観測された、「時間と空間」こそが、我々が生活する現実世界の「実体」であると確信するに至ったのである。あらゆる学問は、この科学的測定と、科学的観測という客観的基準により、評価判定され、再構築されてきたのである。
 ここまで、この科学的地図帳はまことにもって良く機能し、人類の生活を導いて来たが、ここに至り、その価値に変化の兆しが顕れてきた。その変化とは、本来は人類の生活を豊かにするための「手段」であったはずの科学的地図帳が、いつのまにか「目的」となる本末転倒の現象である。
 現代人の目的は、人間的な生活からもたらされる幸福などではなく、その生活が科学的地図帳に一致しているか否かが、最大の目的である。換言すれば、我々の生活とは科学的地図帳で構築された社会システムの合理性を証明するためのものであり、その生活とは実証実験の過程である。
 人間の生活が、手段であるべき科学的地図帳に奉仕することであろうはずがない。この目的と、手段の転倒現象に危機感を覚えたのが、哲学者ニーチェであり、フッサールである。彼らはこのような本末転倒が何を人類にもたらすのかを正確に予測した。
 ニーチェは100年前に、当時もてはやされていた科学的思考から構築された社会主義思想や、民主主義思想が将来にもたらす弊害を見抜いていた。彼は、これらの科学的思想が行き着いたところに顕れるであろう世界に生きる人々のことを「末人」と呼ぶ人間モデルで表現し、その末人の登場まで200数十年と予測した。しかし、現代人を眺めると、まさに彼が描いた末人の人間モデルに近づきつつあり、事態は予測以上の速度で進行しているように思われる。ニーチェが提示した末人の人間モデルとは、自己意思をもたず、可もなく不可もなく、争いを好まず、すぐ妥協し、健康のみに気をくばり ・・等々。つまり、現代社会を構成する多くの人々が呈する人間像に酷似する。彼は、これらの「末人」の到来を予測したうえで、そのような社会の中で人類の救いとなる「超人」の登場を希求したのである。
 他方、フッサールはこの本末転倒に対し、科学的観測を基とする客観的な神の目の視点を廃し、主観的な人間の目の視点から我々の生活世界の実在を明らかにすることに挑み、人間が使用する言葉の意味を追求し、ついに「現象学」という実世界を語る新たな哲学を構築するに至った。
 しかしながら、今もなお多くの現代人は測定と観測に基づいて構築された科学的地図帳が唯一の実在世界であると確信している。科学的方法論の構築に多大な貢献をしたガリレオは、多くの真理を発見したと同時に、また多くの真理をも隠蔽したと言われる。隠蔽された真理とは、また現代人が見失ってしまった真理でもある。
 我々一人一人の居場所は、その人のみの居場所であり、その居場所に構築された意識の地平は、またその人のみの世界風景である。木曾谷の山中深く生活する人が眺める世界は、木曽谷というその場所に構築された意識の地平であり、東京のビルの谷間に生活する人が眺める世界は、東京というその場所に構築された意識の地平である。
 唯一絶対の世界などは、この世のどこを探しても、見いだすことなどできないのである。
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