孤高の日本画家、田中一村が描いた宇宙は暗と明の狭間であり、あらゆるものを生み出す原始的混沌で構成された曼陀羅宇宙の姿であった。それはまた夜と昼の狭間に、山と海の狭間に象出する万物事象の創造主、自然神の姿でもある。その思索はさらに過去・現在・未来の宇宙構造に展開し、現在は明であり昼であり、過去・未来は暗であり夜であるとした。
ここでこれらを整理すると以下のようになる。
夜(暗) → 朝 → 昼(明) → 夕 → 夜(暗)
過去・未来 混沌 現在 混沌 過去・未来
この構造は波動構造である。
波動には4つの特異点があり、それは「陽の極点」・「陽から陰への変節点」・「陰の極点」・「陰から陽への変節点」の4点である。四季にたとえれば夏・秋・冬・春の4つの季節である。
この波動構造で前表を整理すると以下のようになる。
夜(暗) → 朝 → 昼(明) → 夕 → 夜(暗)
過去・未来 混沌 現在 混沌 過去・未来
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
陰の極点 陰から陽への変節点 陽の極点 陽から陰への変節点 陰の極点
冬 春 夏 秋 冬
このように整理すると過去・現在・未来の時空もまた波動性をおびていることが観えてくる。
波動はアナログ的な幾何学表現であり、デジタル的な代数学表現では循環となる。つまり、過去・現在・未来は循環している。循環とはまた回転であり、換言すれば過去・現在・未来は回転している。つまり、時空間は円環を成している。時空間が円環を成すとは哲学者ニーチェが言った「永遠回帰」の構造である。この円環構造の時空では過去と未来がつながっている。つまり、暗の空間では過去と未来が混合しエマルジョンになっている。これを昼と夜の構造で述べれば、深夜の草木も眠る丑三つ時には過去と未来が一体化し混濁している。この過去と未来が混濁している空間とは、すなわちすべての可能性を含んだ暗在系としての虚空間である。この可能性の海である暗在系の虚空間から現在という明在系の実空間に万物事象が象出して来るのである。
表はさらに以下のように整理される。
夜(暗) → 朝 → 昼(明) → 夕 → 夜(暗)
過去・未来 混沌 現在 混沌 過去・未来
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
深夜(丑三つ時) あけぼの 真昼 たそがれ 深夜(丑三つ時)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
↓ 「春はあけぼの いとおかし」 ↓ 街角トワイライト (歌謡) ↓
↓ 徒然草 (清少納言) ↓ おぼろ月夜 (唱歌) ↓
↓ 「東しの 野にかぎろい」 ↓ 横浜たそがれ (演歌) ↓
↓ 万葉集 (柿本人麻呂) ↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
草木も眠る 草木も醒める 草木も活動 草木も憩う 草木も眠る
(混濁) (交錯) (覚醒) (交錯) (混濁)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
ミッドナイト もや デイライト かすみ ミッドナイト
ブルー (朝靄) オレンジ (夕霞) ブルー
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黄泉の世界 誕生 娑婆の世界 臨終 黄泉の世界
この表を眺めていると夜と昼の狭間である「朝と夕は特異な空間」であることが観えてくる。何者かが生まれ、何者かが死ぬ空間であり、何事かが発生し、何事かが消滅する空間である。
宇宙構造は入れ子状(フラクタル構造)を成し、細部は全体であり、全体はまた細部である。この構造から考えれば、一日の宇宙の生成も何十億年の宇宙の生成もまた「同じ構造」である。
何十億年の宇宙の生成を述べたビックバン宇宙論では宇宙はビックバンと呼ばれる大爆発から始まり、ビッククランチと呼ばれる大収縮に終わる。
上表から言えば、ビックバンとは朝靄であり、ビッククランチとは夕霞である。
我々は一日、一日と生と死を繰り返している。夜の眠りは意識の混濁(死)であり、昼の活動は意識の覚醒(生)である。
夜の眠りはすべてを包含する暗在系の虚空間であり、昼の活動はその虚空間から投影された明在系の実空間である。虚空間と実空間の「狭間の空間」は、あけぼのの朝靄の中に漂う「いとおかしさ」であり「かぎろい」であり、たそがれの夕霞の中に漂う「トワイライト」であり、「おぼろ」である。
歴史的に眺めると古代人はどうやら「あけぼの」に感情移入の多くがあり、近代人は「たそがれ」に多く感情移入があるように見える。
それは万葉歌人、柿本人麻呂の「東しの 野にかぎろいの立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ」という宇宙の神髄を直観した名歌となり、清少納言の「春はあけぼの いとおかし ようよう明けゆく山ぎは
・・・ 」という徒然草の名文となる。
そして、近代は「菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし 春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて 匂い淡し」という小学唱歌となり、「街角トワイライト」という感傷的なポップ歌謡となり、「横浜たそがれ」という恋愛演歌となる。
この現象は現代人の夜更かしする生活環境に起因しているように思われる。夜更かしする現代人にとって早起きは苦手なのであり、古代人のように朝靄の世界を見ることができないのである。
閑話休題。かって私は現代の子供たちに「昔話」が通用するのかどうかについて考えたことがある。
「一軒の農家が村はずれにあって、草木も寝静まった真夜中、その一軒家に明かりがともっている ・・ その家の中をそっとのぞいた時に
・・ 」この語りだしで、問いを現代の子供たちに発する「君はそのそっとのぞいた家の中に何を見るの ・・?」
我々の世代では「鬼婆が髪を振り乱し悪鬼の表情で大鎌を研いでおり、その横の大鍋はぐつぐつとお湯が沸騰していて ・・・ 等々」と答えるのが一般的ではなかろうか。だが現代の子供たちの多くは「それはテレビを見ているんだよ、深夜劇場で面白い映画かなにかやっていたんじゃないの
・・ 等々」と答えるのではないか。つまり、セブンイレブンやローソンなどのコンビニやロイヤルホストなどのファミレスが24時間営業し、深夜も車が行き交う現代社会では日本昔話は通用しなくなってきているのである。このままでは昔話にあった原始性、呪術性、土俗性
・・ 等々の魂の混濁は消滅してしまうであろう。近代物質文明は多くの利便性を我々にもたらしたが、また多くの貴重な精神性を時空の闇に葬ってしまったのである。昔話の消滅もまたそのひとつであろう。その昔話の中に怖れや喜びや夢を描いて育ってきた我々中年世代としては寂しいかぎりである。これもまた時勢の流れであろうが少なくとも日本の精神文化史として日本各地に残るこれらの昔話を文献として記録しておくべきと念願する次第である。昔話の語り部たる老人もまた次々とこの世を去っていく。早くしないとその昔話が永遠に時空の闇に没し去り痕跡さえ残らないことになる。
話をもとにもどすと、現代人はこのような事情をもって、ますます「朝靄の覚醒」に立ち逢うことから遠のいていき、その分「夕霞の憩い」に意識が移行していくであろう。
いかに夜更かしする現代人でも夕刻は醒めているのであり、もって「近代文化は夕暮れ文化」に向かうことになる。現代人がもっともホッとする空間は今や夕闇がせまり来る「たそがれどき」なのである。街の灯ともし頃、港の灯の点滅が始まる頃、トワイライトこそが現代人の文化の基底を構成している。夜のネオン街に足早に向かう現代女性が最も美しく見えるのもまたこの時空間である。
過去・現在・未来の構造で述べれば
朝靄のあけぼのとは現在空間に未来空間から新たな万物事象が生まれようとする「刹那空間」であり、夕霞のたそがれとは現在空間に在った万物事象が過去空間に去ろうとする「刹那空間」であると位置づけられる。
現代人が未来に夢を描けなくなり、怠惰と退廃の生活観に陥っているのは、あんがい朝霞とあけぼのの空間に立ち逢えない状況に原因があるのかもしれない。
かっての日本人は「早起きは三文の得」と言っていた。今やこれも死語である。この真意は早起きでこの現在空間の誕生に立ち逢うことで、未来の夢を手に入れることができると考えたのではなかったか。我々は「夕暮れのお葬式」に立ち逢うばかりではなく、もっとより多く「朝明けの出産」にも立ち逢うべきであろう。古い記憶の彼方に、その家の一族郎党がじっと息をころして産まれ来る子の誕生の瞬間を待っている昔日(せきじつ)の出産風景の場面がかすかに残っている。
多くの現代人は今、「時空のたそがれ」にばかり憩い、死ぬことばかりを考えて生きるようになってしまった。願わくはもっと「時空のあけぼの」に覚醒し、生まれることを考えて生きるようになってほしいのだが
・・・。
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