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ビジョンウィンドウから眺める信濃の四季

窓の向こうに世界が見える〜信州つれづれ紀行から
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信濃国分寺の蓮 / 長野県上田市国分
思いの息吹
 信濃国分寺の蓮池で蓮の花が咲いたとの報に接し訪れたのであるが、その蓮池がどこにも見あたらない。それもそのはず、今までの長い間、信濃国分寺を国道18号線沿いの資料館がある国分寺史跡公園付近だけだと思いこんでいたのである。公園内で草取りに精を出していた老齢の職員に尋ねると、その蓮池は国道を越えた反対側の高台にある信濃国分寺の北側にあるとのことであった。国分寺史跡公園の礎石跡しか眺めてこなかった私には、実際の堂宇が建っていることは驚きであった。かねてより国道18号線をまたいだ反対側に立派な山門があることに不思議な思いを抱いてきたのだが、その疑問はようやくにして氷解したのである。
 国道を渡り、山門をくぐり参道の坂道をしばらく登るとその立派な堂宇が現れた。別名八日堂ともいわれ、重文の三重塔もひかえている。今までどうして知らなかったのかが不思議であった。知っているようでいて知らないことは往々にしてあるものではあるのだが ・・。そして本堂を裏に回った蓮池では、蓮の群落が見事な花を咲かせ、吹く風に花頭を揺らしていた。その光景は遡る1200余年前、奈良天平の時代、仏教の布教に生涯をかけ、東大寺の大仏建立を成し、全国各地に国分寺を配した聖武天皇、国分尼寺を配した光明皇后の「思いの息吹」を感じさせ、かって奈良斑鳩の里に居住し、総国分寺である東大寺や、光明皇后の生き写しとされる十一面観音がある総国分尼寺である法華寺を訪れた頃の私の「若き日々」を走馬燈のように甦らせた。
 撮影をすませて再び国分寺史跡公園に戻り、僧寺跡の金堂の基台の上に立った私は、金堂と講堂を貫く中心線が国道をはさんで、現存する国分寺(八日堂)山門の中心を通過し、八日堂の堂宇の中心とぴったりと一致するという事実に気がついた。同様に僧寺跡に並列する尼寺跡の中心線もまた同方向で一致した。その刹那、信濃国分寺の壮大な様相が1200年の時を越えて、ありありと私の眼前に象出したのである。国道18号線や並走するJR信越線(現しなの鉄道)はその象出を隠すかのようにかっての信濃国分寺の寺域を縦横に分断してしまっていたのである。
【国分寺とは】
 741年(天平13年)、国分寺建立の詔が出され、僧寺は僧20人をおき、尼寺は尼僧10人をおき、各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府区域内か周辺に置かれた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして、現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や、公共施設で、国分寺の遺品を保存している所がある。
文・撮影 / 柳沢 健
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