Linear 信州ベスト紀行セレクション
伊那市にて(4)
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六道の堤 追憶の井月 / 長野県伊那市美篶
千両、千両
 この撮影は2011年4月のことであった。
 桜で有名な高遠に向かっている道すがら小さな池の周りに咲く桜並木を目にとめて立ち寄ったのである。 冷たい雨が降るあいにくの天候で人影は途絶えていた。 ぬかるんだ堤の上で傘を片手に撮ったものである。 そのとき堤にぽつんと佇む句碑を読んだ。 その時は伊那にはこんな放浪の俳人がいたのかという程度の関心であった。
 その池と堤が 「六道の堤」 と呼ばれ、その句碑が井月(せいげつ)そのひとの絶筆であることを知ったのは半年以上も後のことであった。 きっかけは井月の映画化(ほかいびと~伊那の井月~)である。 製作費約3900万円。 監督はその六道の堤付近(伊那市美篶)出身の北村皆雄氏、井月役は映画 「たそがれ清兵衛」 で日本アカデミー賞助演男優賞を受けた舞踊家の田中泯さんである。 その映画を紹介する地元テレビのニュース番組で私が撮影したカットと同じ、しかも雨降りの中で咲く六道桜を背景にした撮影ロケ風景がながれたのである。
 その後、気になって井月のことを調べるにつれ、かくも凄い俳人が伊那の地にいたのかと瞠目させられることになった。 以上が眠らせておいたこの日の六道の桜を編集した経緯であるが、今となればこの堤に私を立ち寄らせたものとは、あるいは東日本大震災に打ちひしがれた現代日本に捧げる井月の鎮魂歌の切なる調べであったのかもしれない。
※)井月その人の人となりは私が説明するよりも以下2つの視点を異にしたウェブサイトの記述のほうがより理解が深まると考え転記させて頂きました。

伊那谷を放浪した井上井月
( http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/seigetu.htm より )
 弘化元年(1844)3月、上信越地方を巨大地震が襲い、長岡城下も大きな被害を受けた。 江戸表に勤めていた長岡藩士井上克蔵(後の井月)のもとに、地震で倒壊した家屋の下になり両親、妻そして娘の一家全員が亡くなった知らせが届いた。 急いで長岡に帰った克蔵を待っていたのは、愛しい家族を埋葬した墓しかなかった。 克蔵は虚しく江戸に戻った。
 克蔵は昌平黌で主席になるほどの逸材で、この時も古賀茶渓の久敬舎に通い、まわりから将来を嘱望されていた。 江戸に戻った克蔵は、以前と同じように勤勉に勤めていたが、久敬舎に通わなくなり、次第に俳諧に没頭するようになった。 河井継之助とは江戸藩邸で顔見知りで、継之助は5歳年長の文武に優れた先輩格の克蔵を尊敬していた。
 数年後、信州の伊那谷に、越後の生まれで井月(せいげつ)という俳人が現れた。 決して過去を語らず、みすぼらしい身なりをしているが、俳句の知識と詠みは抜群で、書を書かせるとこれは名人の域に達していた。 腰には瓢箪を下げ酒をこよなく愛する奇人は、俳句や書のお礼に酒を振舞われると、「千両、千両」 と言うのが口癖であった。
 越後は生涯清貧を通した良寛の故郷である。 国上山の五合庵に篭った良寛を、その時の藩主である牧野忠精が、長岡の寺の住職に招請しようとしたが、「焚くほどは風がもてくる落葉かな」 と返事を返して藩主の申し出を断った。 継之助も備中松山の山田方谷を訪ねる旅では、良寛が修行した玉島の円通寺を詣でたと旅日記 「塵壷」 には書かれている。 その良寛が目標としていたのが芭蕉で、家族の死で心の拠り所を失った井月は、芭蕉を崇拝するようになった。 芭蕉の旅路を追って旅をし、そしてまた伊那谷に戻った。
 井戸に映る月または四角の月から井月と名乗り、伊那谷の知識人に愛された井月は、伊那谷に入ってから一度も故郷に戻らなかった。 生涯に1700の句を詠み、明治20年(1887)臨終の床で筆を取り、辞世の句を残した井月は長い放浪の旅を終えた。 享年66歳。
何処(どこ)やらに鶴の声聞く霞かな (井月辞世の句)
 井月は鶴の背にのり、愛しい家族の待つふるさと長岡に向かったのだろうか。
雁がねに忘れぬ空や越の浦 (井月)
 伊那谷 の人々は、この句碑を越後に向けて建立し、放浪の井月の魂を長岡に帰してやった。 「千両、千両」、どこかで井月の声が聞こえるようだ。
 長岡市内には2つの句碑があり、悠久山には辞世の句が、柿川の追廻橋の近くには次の句碑が建っている。
鳥陰のささぬ日はなし青簾 (井月)
(謎の俳人井月には諸説があり、ここでは江宮隆之氏の 「井上井月伝説」 の長岡藩士説をとった)

井月(せいげつ)
( http://www.valley.ne.jp/~zaza/seigetu.htm より )
 井戸の 「井」 に、お月様の 「月」 で 「せいげつ」 と読みます。 井月とは幕末から明治の中頃まで伊那にいた俳人です。 でも、ご存じの方はそんなにいないと思います。 俳句を趣味とする人ならばご存じかもしれませんが、一般にはぜんぜん有名ではないと思います。 つまり、正に 「知る人ぞ知る」 俳人です。 でも、えーっと、はっきり言って郷里のひいき目もあるわけですが、私は井月を芭蕉、一茶、蕪村に続く俳人と思っています。 いわば、北信州の一茶ならば、南信州の井月です。
 井月は、幕末の安政5年(1858)頃伊那に現れ、その後30年余りを伊那の地で過ごしました。 その間、定住することなく知り合いの家に一泊二泊や長逗留、時には野宿、伊那の村々を転々と放浪して過ごし、およそ1700の俳句や書などを残しました。 越後(新潟県)長岡の生まれらしい。 名前は井上克三と言うのかもしれない。 息をのむ達筆と深い教養から察するに武家の出らしい。 いや、裕福な酒屋の出かもしれない。 と言われていますが、はっきりした素性は全くわかりません。 伊那に現れた頃は36歳前後、歳を経るに従って風体は乞食同然となりました。 なぜなら彼は定職などには就かず、家庭を持たずまったくの風来坊として生きたからです。 汚らしい格好をして野辺の道をとぼとぼと歩く彼を人は 「乞食井月」 と呼びました。 やせこけて背が高く、頭は禿げていてひげや眉は薄く、切れ長でトロリとした斜視眼。
 下島空谷(本名、勲)は亡くなった弟、下島五山(本名、富士)の集めた句をまとめ、大正10年(1921)に 「井月の句集」 を出版。 初めて井月を世に出した人である。 昭和5年(1930)に高津才次郎と共に出した 「井月全集」 は井月研究のバイブルであるが、その巻頭文に空谷は 「井月は私の幼少の時代に、私の家や親類などに出入りしてゐた人物なので、まのあたりに接見してゐたことは云うまでもなく、彼のためには、吹雪の夜さむを酒買いに遣らされた記憶さえ残ってをります。 当時父などから、井月は阿呆のやうに見えてその実案外学者で、俳道はもとより書が中々に優れてゐると聞かされて、世の中には見かけによらぬ不思議な人間もあるものだと、感心させられたのであります」 と書いている。 空谷は芥川龍之介と親交があり芥川は 「井月の句集」 に跋文を寄せ、それには井月の書は 「入神と称するを妨げない」 とし、また 「このせち辛い近世にも、かう云う人物があったと云う事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある」 と評している。
 極めて無表情で無口、たまに口を開いても低音のその声は不明瞭でよく聞き取れない。 ただ一つ聞き取れるのは 「千両、千両」 という口癖だけ。 ありがとうのとき、誉めるとき、お祝いのとき、感心したとき、うれしいとき、そして、さようならのときも井月は 「千両、千両 ・・」 と言っていました。 ある家にて寺子屋のように近所の子どもに読み書きを教えたときのことです。幾晩も泊まったのでそろそろ出ていこうというとき、手習い中の子どもが出てきて紙に丸坊主を描き、「せけつがひひひひゆていくとこ」 と書いて見せたところ喜色満面で 「千両、千両」 と言ながら出て行ったといいます。
 あまりの不潔さに 「シラミの問屋」 と女性からは嫌われ、とぼとぼと歩いていれば 「乞食井月、乞食井月」 と子どもたちにはやし立てられ、ときには石も投げられました。 ときにその石が頭に当たって血が流れても、井月は振り向きもせずに歩き去りました。 子どもたちはそんな井月を恐れ 「不死身だ」 と噂したりしました。 ある冬、井月があまりに寒そうな格好をしているので古い綿入れ羽織を着せてやりました。 しかし、2~3日後に見るとその羽織を着ていません。 訳を尋ねると 「乞食があまりに寒そうなのでくれてやった」 ・・ 残されたいくつもの逸話によりその人柄が偲ばれます。
 明治19年(1886)の師走のある日、井月は伊那市の隣、現在の駒ヶ根市東伊那の田んぼの中にくそまみれになって行き倒れていました。 見つけられた時はもう虫の息でした。 困った村人は村の迷惑にならないようにと数名で戸板に乗せて火山峠を越えた隣村、富県村南福地(現在の伊那市大字富県南福地)の某地へ置いて帰りました。 それを見つけた村人は、かねてより井月と親交のあった竹松竹風という老人に知らせ、竹風老人は村人の手を借りてさらに縁の深い隣村の河南村字押出(現在の上伊那郡高遠町)、六波羅露松宅へ運び、さらに露松は形ばかりの養子に入った美篶末広太田久保(現、伊那市)の塩原梅関宅へ運び込みました。 しばらくは梅関宅に病身を寄せた井月でした。 しかし、翌明治20年3月10日。 友人、梅関の勧めた焼酎を一献飲み、井月は眠るように亡くなりました。 最期の筆を取るように勧める梅関に、井月は最初 「いやいや」 をしたと言います。 でも、どうしてもと迫る梅関に応えて筆を取りました。
「何処やらに 鶴の声聞く 霞かな (どこやらに たずのこえきく かすみかな)」
 絶筆となったこの句は、辞世の句ではなく以前に作った句です。 この句は、伊那市美篶笠原にある 「六道の堤(堤=つつみ、ため池のこと)」 のほとりにある、井月の句碑の中で一番古い句碑に写されて今に伝えられています。
 さて、それでは井月の句をいくつか紹介しましょう。
「旅人の 我も数なり 花盛り (たびびとの われもかずなり はなざかり)」
 この句は井月が 「清水庵(きよみずあん)」 に奉納した句額に書かれています。 旅人とは俳聖 「松尾芭蕉」 のこと、ひいては芭蕉の境地にあこがれる者のことです。 井月は自分と同じく芭蕉を敬う句仲間の句を額に華やかに書き連ね、その最後に 「私も旅人の一人ですよ」 と井月自身のこの句を書き残しました。
「落栗の 座を定めるや 窪溜まり (おちぐりの ざをさだめるや くぼだまり)」
 この句は井月が美篶末広村太田久保(現在の伊那市大字美篶の末広地区)の塩原家に養子になったときに詠まれた句です。 ころころと転がりどこに落ち着くかわからない落栗のような自分が、やっと落ち着いてその座を定めたのが窪(太田久保)だった。 と言う句です。 しかし、井月は塩原家にとどまることなくその後も生涯放浪を続けます。
「除け合うて 二人ぬれけり 露の道 (よけおうて ふたりぬれけり つゆのみち)」
 草露の残る早朝の道で、お互いに道を譲り合い道ばたによけあったら二人とも裾を露にぬらしてしまった。 二人はお互いの行為を見て、ふと笑い出してしまったのではないでしょうか。
「降るとまで 人には見せて 花曇り (ふるとまで ひとにはみせて はなぐもり)」
 井月の墓石に刻まれていた句です。 しかし、今では摩耗して判読できません。 井月の墓石。 今でもファンが訪れてお酒と花をお供えしていきます。 でも、毎年その 「お供え物の片づけがすごく大変」 との塩原さんのお話です。 お参りの際は、お酒をそそぐ程度にして花などは置いていかないようにしましょう。 写真の献花はまだ新しい物でしたが、私が片づける訳にもいかないのでそのままにしておきました。
 井月の俳句はとてもオーソドックスなもので、良く言えば正統派です。 しかし、一茶や蕪村や山頭火のような独自の領域と言いましょうか、個性的な味がありません。 それでも私は井月を横綱、大関とは言わないまでも、俳壇では小結クラスだと思っています。
 さて、多くの人が井月に出会うのは自由律の俳人 「種田山頭火」 からのようです。 山頭火は昭和9年(1934)に井月の墓参のため来伊を企図します。 しかし、信州に入り飯田まで来たところで肺炎となり墓参を断念し帰宅します。 あきらめきれない山頭火は昭和14年(1939)、再度信州へ旅をし5月3日ついに井月の墓前へ参ることが出来ました。
 (井月の墓前にて)
 お墓したしくお酒をそそぐ
 お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました
 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね
 供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝
 山頭火の日記にはこう記してあります。 山頭火自身も放浪を好んだことは有名です。 自らの生き方の先達として井月を親しく身近に感じたのではないでしょうか。
 酒が大好きで酒の上での失敗談は数知れず。 婦女子に嫌われ子どもに怖がられ人にあざけりを受けて呆れられ、それでも本人は表情も変えずに野辺の道をトボトボと歩いていく。 近くにいると迷惑だけど、しばらく姿を見ないと 「どうしたのかな」 とふと思い出す。 井月はそんな人だったのかな、なんて私は想います。 「井月全集」 の下島空谷氏はこう言っています。 「井月は一体どんな人物か? これは中々の問題で、この緒言などで軽々しく論ぜられるべきではありません。 (中略) しかしながら、いま簡単率直に私の考へを述べてみますれば、(中略) 即ち近世畸人伝中にも多くその比を見出しがたい超凡脱俗の人物といふことが出来ませう。」
※)現在伊那市では井月のことを 「井上井月」 と言ったり書いたりする事が多い。 伊那市教員委員会の記述、伊那市役所の記述や言い方も 「井上井月」 などとしていることがほとんどである。 私はこの事実が恥ずかしくてたまらない。 井月は一度たりとも自らを 「井上」 と名乗ったことはないし、そう言った記述も残っていない。 井月研究のバイブルである 「井月全集」 にも、井月の姓が 「井上」 だなどとはないし、その後 「井月の氏姓は井上だった」 という確たる研究報告も、ニュースも、私は一切知らない。 私が知らないだけではない。 そんな事実は一切ないのだ。 にもかかわらず、伊那市及び伊那市の井月に関わる人たちは、当たり前のように 「井上井月」 などと言っているし、書いている。 何とも恥ずかしい。 それはあたかも、「松尾芭蕉」「小林一茶」「与謝蕪村」「種田山頭火」のように、または同列に表記したいと言うことなのだろうか。 芭蕉、一茶、蕪村、山頭火は、自らを松尾、小林、与謝、種田と名乗ったり記したりして、その史実(事実)があるから当然問題はない。 しかし、井月が残した自らの名前は 「井月」 または 「柳のや」 だけである。 井月は自らの素性をはっきり語った事実はないし、触れられたくない、話したくないとした様子こそが今に伝わっているはずである。 それなのに 「井上」 をつけている伊那市と関係者 ・・。 これは明らかに嘘である。 この嘘を井月は地下でいやがっているに違いないと私は思う。 下島空谷氏が言う 「近世畸人伝中にも多くその比を見出しがたい超凡脱俗の人物」 井月を、現在の俗人・凡人が辱めていると私は思う。

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