信州ベスト紀行セレクション
清里高原(6)
Backward
|
Forward
清泉寮 / 山梨県北杜市高根町清里
開拓の魂は今もなお〜聖人の碑
清泉寮は1938年(昭和13年)、アメリカ合衆国、ケンタッキー州出身の牧師、ポール・ラッシュ博士(1897〜1979年)によって青少年指導訓練所(キャンプ場)として建設された。 キープ協会の創設者である博士は 「己のように隣人を愛しなさい」 という聖書の言葉に従って戦後日本の民主的復興に多大な貢献を果たした。
関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCAを再建するため1925年(大正14年)に米国の国際YMCAから派遣された博士は日米開戦で本国に強制送還されるまでミッションスクールであった立教大学で教鞭を取りながら聖路加国際病院建設の募金活動、日本聖徒アンデレ同胞会の設立など多くの社会事業に尽力するとともに、ここ八ヶ岳山麓の清里の地に清泉寮を建設したのである。
戦後GHQ将校として日本に戻った博士はマッカーサー元帥の理解を得ながら戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に身命を賭して奔走した。 亡くなる直前、来日した英国のカンタベリー大主教が清里で病床にあった博士を見舞い人類への奉仕と神の栄光を地上に顕したことに感謝の言葉を伝えた。 最大の栄誉を受けた博士は1979年(昭和54年)、聖路加国際病院で82歳の生涯を閉じた。
博士が最後に遺した物は、聖書と万年筆、何着かのスーツ、そしてパジャマと歯ブラシだけであったという。 家庭も持たず日本への無償の愛に殉じた博士の遺骨は清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されている。 そして清泉寮の本館前には大好きだった富士山の方向を向いてポール・ラッシュ博士の銅像が立っている。 銅像の前は四季をとおして記念撮影をする人々の姿が後を絶たないという。
ここを訪れたのは雑誌で見た八ヶ岳を背景にした清泉寮の風景に惹かれてのことであったが山容は雪雲に没して眺めることは叶わなかった。 わずかな陽射しが寒風吹き抜ける草原をかろうじて温めている。 2015年師走、時はゆっくりとした足どりでその草原を渡っていった。 聖人の優しきまなざしがそれを見送っているようであった。
2015.12
|
セレクションインデックス
|
copyright © Squarenet