源頼朝の家臣工藤祐經は、建久4年(1193)曾我兄弟に討たれました。祐經の子犬房丸は、曾我五郎の顔を扇で打ってしまいます。その罪で、すでに工藤氏の所領がある伊那春近領に流されました。若干9歳の犬房丸は同族で、小出の地頭である、工藤氏に保護される身となりました。犬房丸は、その頃密教を宗旨とする当山に帰依されます。成長された犬房丸は、地頭である工藤氏の外護を戴き当山本堂を再建されました。住持は、大檀那犬房丸祐時の赦免を願い護摩を焚き祈祷されます。しかし、建保元年(1213)29歳で他界されました。当山の犬房丸の位牌は放射性炭素年代測定の結果600年程前の松材に紅殻で書かれています。位牌には「感應院殿唐木前但州大守深圓俊光大居士」とあります。この位牌から、唐木氏一族が工藤氏に繋がることがわかります。工藤氏を祖と仰ぎ「正面に二人の俗名」を彫った卵形の石碑が、西春近小出山本726番地(常輪寺北側)にあります。これは、寛永8年(1631)9月、当山檀越唐木氏のご先祖により建立されたものです。この碑が18世紀になり幾多の「犬房丸伝説」を生む素地になりました。江戸初期の古碑をぜひお訪ね下さい。当山は、不遇な犬房丸父子の永代供養を発願致しました。富士山のすそ野にある工藤祐經の墓所から尊霊をお迎えしました。ここに、父子のご冥福をお祈りし、この史話を末代まで伝えたいと思います。
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