未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
信州つれづれ紀行 / 時空の旅
神明社荒神社合殿 / 長野県伊那市狐島
狐島にて
長野県伊那市狐島、なにゆえに「狐島」と言うかは不明である。ネットで探しても見つけられなかった。謂われは確かにあったのであろうが、それもいつしか歴史の闇に消え去ったものとみえる。
神明社荒神社合殿はその狐島の中央にある。鎌倉時代の初期、建久6年(1193年)の曾我兄弟の仇討ち事件で有名な「犬房丸」が狐島へ流刑になり、その後、現在の伊那市西春近小出へ移されると決まったとき、別れを悲しんだ村人に、自分が背負って来た木造の荒神様を与え、「私が居なくなってもこれを祀れば安心だ」と言い残して去ったという。その荒神様を祀ったのが神明社荒神社合殿の始まりと伝えられている。
境内には欅の大木が7本あり、目通り直径が2mを超える大木もあって歴史の古さを物語っている。これらの大木は付近を流れる天竜川と三峰川の水害から村を守ってくれたといわれ、狐島の「鎮守の森」にふさわしい風格と景観を今にのこしている。
明治39年(1906年)、時の政府が強行した「神社合祀令」によって、周辺の神社は1社に合祀されたが、この神社と欅の森が残ったのは狐島の村人がこれらを深く敬愛していた証であろう。毎年4月には例祭を行うほか、四季折々に祭事を執り行いながら、社と欅を大切に保全している。
ちなみに「曾我兄弟の仇討ち」とは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件であり、「赤穂浪士の討ち入り」、「伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘とも呼ばれる)」に並ぶ、日本三大仇討ちの一つで、武士社会における仇討ちの模範とされている。
前記の「犬房丸」とは、曾我兄弟に討たれた工藤祐経の子(当時9歳)であり、その犬房丸が曾我五郎時致の顔を扇で打った罪で、工藤氏の所領があった伊那春近に流された。幼くして父を失った犬房丸はその後29歳の若さで他界している。仇討ちの真相はいまだに明らかでなく謎も多い。あるいは歴史の闇に消え去った「狐島の謂われ」もまた、そこらあたりに帰因しているのかもしれない。
2016.03
copyright © Squarenet