Linear ベストエッセイセレクション
立原道造の風景〜夢みる人
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 私はかって訪れた地を訪れた。 森も、たどりゆく小道も、ただずむ湖も、碧空を渡る風も、降り注ぐ陽光も、何もかも変わらずにそこにあった。 だがそのどこにも君の姿を見つけることはできなかった。 ささやかな風景は寂寥の彼方に去って再びはもどらない。 夢はもうその先にはゆかなかった。
詩人とは
 知的冒険エッセイ 「考える脳」 では左脳派と右脳派の思考方法の違いについて記述したが、なかでも詩人は右脳派の代表であろう。 夭折の詩人、立原道造は友人に宛てた書簡の中で次のように語っている。
 いつか僕は忘れるだろう。 「思ひ出」 という痛々しいものよりも僕は 「忘却」 といふやさしい慰めを手にとるだろう。 僕にこの道があの道だったこと、この空があの空だったことほど今いやなことはない。 そしてけふ足の触れる土地はみな僕にそれを強ゐた。 忘れる日をばかり待ってゐる。
 特筆すべきは 「この道があの道だったこと、この空があの空だったこと」 という表現方法である。 道造は 「思い出とは、この道があの道であること、この空があの空であること」 と簡潔にして明瞭に表している。 こまごましい説明を軽々と飛び越えて核心を貫いているのである。
 数学には代数学と幾何学という2通りの手法がある。 代数学は数式(方程式)を連ねて解に至る手法であり、幾何学は図形を描いて解に至る手法である。 代数学は論理に基づくため左脳派に好まれ、幾何学は直感に基づくため右脳派に好まれる。
 道造の表現は幾何学的な手法であり、描かれた図形(道造にとっては自然の万物事象)を眺め、効果的な補助線(道造にとっては直感的感受性)を引くだけで事の核心に迫る。 左脳的な代数学派からすれば、「この道があの道であること、この空があの空であること」 だけをもって 「思い出」 であることの証明にはなっていないと反論するであろう。 それに至る詳細な道筋(方程式)を示せというわけである。
 右脳的感受性に富んだ道造にすれば、思い出こそが自らの詩作の原動力であったとともに、同時に精神的苦痛の源泉でもあった。 救済への道は、唯一、「忘却」 しかなかったのであろう。
 1939年3月29日、肺結核の病状が急変、道造は24歳の若さで天国へ旅立っていった。 亡くなる1週間前、見舞いに訪れた友人に 「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい ・・ 」 という言葉を遺している。 詩人とはかくこのような人をいうのであろう。
 道造の後輩であった中村真一郎は、彼の風貌を次のように語っている。
 人間であるよりは、はるかに妖精に近いような雰囲気を、あたりに漂わせながら、空中を飛ぶような身軽な歩きかたで、動きまわっていた、建築家兼詩人の、なかば少年のような面影。 いつも半分まじめで、半分は遊んでいるような姿。 あの独特な含み笑い−。 戦争直前の暗い時代だった。 その時代のなかで彼は時代錯誤のように生き、不思議に透明で、夢のように甘美な、純粋詩を、その骸骨のような細い指先でそこらにまき散らしながら、通りすぎて行った。 「街には、軍歌ばかりが、聞こえるようになる」 とつぶやきながら。
 また詩人としての立原をもっとも高く買った三好達治は、「暮春嘆息」 と題して、次のような詩をおくって夭折の詩人の魂をなぐさめた。
 人が 詩人として生涯ををはるためには
 君のように聡明に 清純に
 純潔に生きなければならなかった
 さうして君のように また
 早く死ななければ!
あの道がこの道であること
 「詩人とは」 の中で述べた 「あの道がこの道であることが私を苦しくさせる」 という立原道造の言葉は、「思い出」 というものの本質を見事に貫いている。
 あの道にあって、この道にないものとは 「あの時間」 である。 あの道にあったものとは過去となった 「あの時間」 であり、それは現在のこの道にはない。 現在にあるものは現在にある 「この時間」 である。
 道造のこころを苦しくさせているものとは 「二度と再びあの時間にもどれない」 という時間がもつ絶対的非可逆性に対する嘆きである。 後悔は先には立たないのであり、覆水は決して盆にはもどらないのである。
 ではあの道にあった物理的条件(天候や環境条件等)をこの道の物理的条件として完璧に再現した場合はどうであろう。 違いはあの時とこの時という時間のみである。 だがそれは意識としての時間であって、意識を消滅させれば 「あの道」 は 「この道」 と同じである。 それがゆえに道造は救いの道を 「忘却」 に求めたのである。 つまり、忘却とは意識を消滅させることに他ならない。 だが感受性に優れた道造であってみれば、いくら忘却を求めたところで意識ある身をもってしては、それは不可能なことであったであろう。
 物理学的な 「時空間」 とは時間と空間という2つの要素によって構成された宇宙である。 しかして、A という時空間と、B という時空間の同一性は、この2つの要素の一致をもって保証されるのであるが、「時間の始まりと終わり」 や 「宇宙の果て(空間の果て)」 という時間と空間にまつわる根源的な疑問に対する明確な解答をもっていない我々人間にしてみれば、あの時間とこの時間が同じであること、あの空間とこの空間が同じであることを、どのように保証できるのであろう。 まして 「時は流れず」 と考えている私とすれば、あの道とこの道の違いは、時間の違いではなく、意識の違いと考えることに妥当性を覚える。
 つまり、あの道にあったものとは 「あの意識」 であり、この道にあるものとは 「この意識」 なのである。 私はこのような 「意識のめぐり逢い」 を名付けて 「時空のめぐり逢い」 と呼んでいる。
 道造は苦しくはあったが、かくなる時空のめぐり逢いの中から、不思議に透明で、夢のように甘美な、純粋詩を紡ぎだし、時代を駆け抜けていったのである。 「いつかどこかで」 という 「のちの思い」 を画したつぶやきをのこして ・・・。
のちの思いに
 日本の中の西洋と言われた軽井沢はまた多くの文人、作家に愛された地である。 軽井沢高原文庫はかってあったであろう 「彼らの思い」 が何であったのかを知る 「よすが」 を今に伝えている。 堀辰雄、堀に師事し若くして世を去った立原道造、室生犀星、生まれ出づる悩みに苦しんだ有島武郎、その有島が人妻、波多野秋子と情死した別荘 「浄月庵」 もまた旧軽井沢 「三笠の地」 からここに移築されている。
軽井沢高原文庫 / 長野県北佐久郡軽井沢町塩沢
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 思えば有島武郎、近衛文麿の面々が夫人同伴で収まった 「1枚の写真」 を見たのは、昨年4月に訪れた、軽井沢の鹿鳴館と呼ばれた 「旧三笠ホテル」 の晩餐室であった。 さらに、悩める有島が師事したキリスト教者、内村鑑三が創った軽井沢 「石の教会」 を訪れたのは今年の2月であった。
 そして今日、訪れた高原文庫の庭は、雨に打たれた新緑の木々に包まれて森閑としている。 その庭の片隅で、私は立原道造の詩 「のちのおもひに」 が刻まれた 「ささやかな歌碑」 を見いだした。 軽井沢に住んだ辻邦生が急逝して、はや12年の歳月が経過しようとしている。 悲報を聞いた刻、なぜか私は、氏の 「西行花伝」 を読んでいたのだが、そのときの心境を、知的冒険エッセイ 「のちの思いに」 で以下のように書いている ・・ 翌日の新聞記事にて、辻氏の最後の作品の表題が 「のちの思いに」 というものであり、それが氏と同様に軽井沢を深く愛した立原道造の詩の題名からのものであること、また氏がこの 「のちの思いに」 という表題を大変に気に入っていたこと等を知った ・・ 軽井沢の 「いち時代」 を画した彼らが、後世に託した 「のちの思い」 とはいかなるものであったのか ・・ 胸中いまだ漠として霧中に没している。
  のちのおもひに / 立原道造
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
― そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた ・・・・

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
夢みたものは
 5月のそよ風に吹かれると思い出す言葉がある。 それは夭折の詩人、立原道造が生涯を閉じる直前につぶやいた 「五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さい 非常に美しくておいしく 口の中に入れると すつととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです」 というものであり、結核の病状が急変、江古田の療養所に入院した道造を見舞った友人が問いかけた 「なにか欲しいものはないか」 に答えたものである。 詩人とは最期まで詩人なのである。
 その病室にはかいがいしく看病するひとりの女性の姿があった。 最後の恋人とされた水戸部アサイである。 彼女は建築家でもあった道造が勤務した石本建築事務所の同僚であり、タイピストとして働いていたモダンな女性であった。 18歳で道造と出逢った彼女は彼の最期を看取って 19歳 で永遠の別れをとげることになった。
 道造とアサイには次のような 「ささやかなるも哀憐な物語」 がのこっている。
 1937年6月5日の日曜日、道造はアサイを誘って軽井沢へ日帰りの小旅行へ出かけた。 信濃追分駅近くの草むらで、道造はアサイにプロポーズをしたという。 1938年、道造はアサイと過ごす幸せな時間を一篇の詩にしたためた。 愛する喜びに世界は光り輝き、目に映るすべてが幸せに満ち溢れていた。 その 「夢みたものは」 を書き上げた道造は、その年の12月に喀血し容体が悪化。 この時すでに手遅れの状態にあった。 アサイの献身的な看病も実らず、3か月後の1939年3月29日、道造は 24歳 の若さでこの世を去った。 道造とアサイは最後まで清い間柄だったという。
 道造の死後、水戸部アサイは彼をめぐる文壇の知己達のもとから一切姿を消してしまう。 1度だけ信濃追分駅のホームにひとり佇むアサイの後姿を道造の後輩である中村真一郎が目撃したという。 ホームからは美しい浅間山を間近に眺めることができる。 彼女は旅立っていってしまった道造をそのときいかに思いやっていたのだろうか ・・ 知るは見守っていた浅間山のみである。
信濃追分からの浅間山 / 長野県北佐久郡軽井沢町追分
動画ウィンドウの再生
 その後の水戸部アサイの消息がわずかばかりのこっている。
 評論家の小川和佑は水戸部アサイを 30年後 に探し出した。 そのとき彼女は道造からもらった手紙 15通 をひとつも汚さず所持していたという。 皆の前から姿を消した彼女はずっと独身であったのではないかと推測される。 わずか 1年 足らずの愛を 胸の奥底に刻んだまま彼女はその後の日々を生きてきたのではあるまいか ・・ あの日の五月のそよ風をゼリーにして ・・・。
寄稿文が語るもの
 日本ペンクラブ企画 「ふるさとと文学 “ 立原道造の浅間山麓 ”」 (2019年10月27日、開催) に向けて、2019年10月2日付け信濃毎日新聞に2編の寄稿が掲載された。 以下の記載はその寄稿文から私の思うままに抽出したその断片である。
 「旅の途中 人間的な結末」(日本ペンクラブ会長、吉岡 忍)
 吉岡は道造が遺したノートを頼りに道造の足跡をたどって浅間山麓から、盛岡を訪ね、長崎を旅した。 以下の記載はその紀行末尾からの抜粋である。
 ・・・ 続いて道造は長崎に向かった。 高台の洋館に一室を借り、青春詩から実人生の作品へと脱皮しようと意気込んでいたが、案内されたそこは生活のにおい、というより腐臭が漂うあばら家だった。 彼は思わず身を引いた。 苦痛に満ちたノートの一節は、さながら一編の小説だ。 翌日、高熱にうなされ、喀血した。 死はそれから4ヶ月後に訪れた。 われわれはノートを頼りに大浦天主堂下の洋館通りや、治療してもらった眼鏡橋近くの医院を探し歩いた。 洋館はとうの昔に取り壊され、医院跡は更地になっていた。 書店で見かけた文学散歩風のガイドブックにも、彼の痕跡は見あたらなかった。 わかったことがひとつある。 道造を看取った恋人(水戸部アサイ)はそれから 20年後、関東から長崎に移り住み、クリスチャンとなって天寿を全うしたという。 何よりもこの事実が、旅の途中で終わった彼の詩と人生にひそやかな、だが、彼らしくも人間的な結末をつけているように私には思われた。 12月に長崎で喀血した道造は帰京後、東京市立療養所に入所。 翌年2月、第1回中原中也賞を受賞するも、3月29日、病状急変し永眠する。 享年26歳(満24歳8か月)の生涯であった。
 私は道造の恋人であった水戸部アサイの 「その後の消息について」 前節で以下のように書いた。
 評論家の小川和佑は水戸部アサイを 30年後 に探し出した。 そのとき彼女は道造からもらった手紙 15通 をひとつも汚さず所持していたという。 皆の前から姿を消した彼女はずっと独身であったのではないかと推測される。 わずか 1年 足らずの愛を 胸の奥底に刻んだまま彼女はその後の日々を生きてきたのではあるまいか ・・ あの日の五月のそよ風をゼリーにして ・・・。
 吉岡の寄稿文はその消息にさらなることを教えてくれた。 それは彼女が何ゆえに長崎に移り住んだのかの理由と、その地でクリスチャンとなって天寿を全うしたという事実である。
 「詩に重なる はかない美」(作家、下重暁子)
 ・・・ わすれぐさ(萱草)。 その名を知ったのは、立原道造の詩によってだった。 「萱草に寄す」。 「はじめてのものに」 「のちのおもひに」 など心惹かれる詩の数々の入った詩集の題名 ・・・ 萱草。 なんとゆかしい名だろう。 忘れな草には人の思いが強く入りすぎているが、わすれぐさとは時とともに移ろう人の気持ちを想像させる。 その淡くはかない美しさは、立原道造の詩に重なる ・・ そんなことを考えながら、大賀ホールでの朗読のため、東京・本郷の東大裏の脇道を下ったところにあった 「立原道造記念館」 を訪れた。 知らなければ通りすぎてしまう、ひそやかな建物。 そこに建築家でもあった立原道造が若き日、恋人と2人だけで住むために設計した小さな別荘の模型があった。 ほんとうに2人だけの空間、ヒアシンスハウスと名付けられていた。 記憶を頼りに何度も同じ道を通りすぎた。 だが、少し前まではあったはずのその記念館は、いつのまにか姿を消していた。 わすれぐさと同じように。
 下重の寄稿文から、私は 「萱草」 の読みが 「かやくさ」 ではなく 「わすれぐさ」 であること、道造が生前、恋人と2人だけで住むための別荘を設計していたことを知った。
 2つの寄稿文は図らずも水戸部アサイと道造の愛がいかなるものであったのかを私に教えてくれた。 その愛は萱草(わすれぐさ)のように時空の彼方へ去ってはしまったが、私には道造が願った 「夢みたもの」 に見事に昇華して完結しているように思えるのである。 立原道造はさいごまで詩人であるとともに 「夢みる人」 であったのである。
  夢みたものは / 立原道造
夢見たものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山並みのあちらにも しずかな静かな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたっている
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘が 踊りをおどってる

告げて うたっているのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたっている

夢見たものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
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【 立原道造 略歴 】
1914年 7月30日 東京市日本橋区橘町に生まれる。
1934年 東京帝国大学工学部建築学科入学。
1935年 小住宅(課題製図)の設計で辰野金吾賞を受賞。
      以後卒業まで3年連続受賞する。
1937年 3月 卒業制作「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を提出。
      卒業後、石本建築事務所に入社。
1938年 8月 肺尖カタルのため休職、信濃追分転地療養。
      12月 長崎に滞在中喀血。
      帰京後東京市立療養所に入所。
1939年 2月 第1回中原中也賞受賞。
      3月29日 病状急変し永眠。享年26歳 (満24歳8か月の生涯であった。)

2025.12.15


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