Linear ベストエッセイセレクション
大いなる錯覚からの覚醒
Turn

大いなる錯覚
 有史以来、人類が確固として信じてきた 「時は流れる」 という線形時間による時間概念を廃棄することには大いなる 「意識跳躍」 を必要とする。 私が用いた意識跳躍の論拠とは以下のようなものであった。
 線形時間とは、時間が 「過去→現在→未来」 と連続して流れるという時間概念である。 私がこの線形時間を廃棄した理由は、均質な時間が不連続で異質な 「記憶としての過去(意識世界)」→「実在としての現在(物質世界)」→「想像としての未来(意識世界)」 を貫いて連続して流れるとする動向を相当な妥当性をもって納得することができなかったからに他ならない。 現在は運動をともなった物質で構成された実在世界(実の世界)であって、意識で構成された仮想世界(虚の世界)とは本質的に異なっている。 均質な時間が異質な 「虚の世界」 と 「実の世界」 を貫いて流れていることなど如何なる妥当性をもって理解したらよいのであろう。 考え得る妥当性は、過去を 「過去の実在」 と考え、現在を 「今の今の実在」 と考え、未来を 「未来の実在」 と考え、かくなる実在を貫いて時間が流れているとする考えであろうが、現在の実在はともかく、過去の実在や未来の実在などいったい 「どこに存在する」 というのであろう。 確定することができない。
 物理学の証明はもっぱら 「数学的論証」 を基とするが、上記した証明はもっぱら 「哲学的論証」 の妥当性をもって 「了」 としたものに過ぎない。 だが私にとっては 「それで充分」 なのである。 それよりも得られた真実が 「いかなる世界を拓くのか」 がより重要なのである。 「シンプルな宇宙」 の宇宙モデルはそうして拓かれた世界なのである。
 おそらく 「時は流れる」 とする時間概念は間違いと言わないまでも 「大いなる錯覚」 であろう。 その錯覚からの覚醒には 「応分の意識跳躍」 を必要とするが、その跳躍は 「神を信じる如く」 に甚だしく容易であるとともに、また甚だしく難しい。
経路積分
 時間が 「過去→現在→未来」 と連続して流れるという線形時間を廃棄することには応分の意識跳躍を必要とする。 以下はその意識跳躍を果たした風変わりな物理学者の話である。
 理論物理学者リチャード・ファインマンは 「量子力学の精髄」 と位置づけた二重スリット実験の結果を解析するにあたって 「経路積分」 という独自の方法を編み出した。 経路積分とは、電子が初期状態から終期状態までにたどる可能性があるすべての経路を、あるルールに従って足し合わせるというものであった。 従来のニュートン力学の世界では、素粒子は、われわれの日常世界での物体がそうであるように 「決まった経路を通る」 とされていた。 しかし、量子世界では、電子は宇宙を踊るように飛び回っているのであって、それ以外の経路についても考慮しなくてはならないのである。 電子が宇宙の彼方まで旅したり、時間的にジグザグにさかのぼったり、進んだりする経路を無視するわけにはいかないのである。 これらの経路をたどると、自然は何の制御も受けず、通常のルートを無視しているように見えるのである。 ファインマンは 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っている」 と主張した。 ファインマンの方法は極端で、ばかげているように見えた。 我々には時間と空間について、断固とした考え方があり、時間は過去から現在、そして未来へと進むものなのである。 だがファインマンに言わせれば、そのような 「ルールに縛られない自由なプロセスにこそ秩序がある」 というのである。 だがファインマンの主張は、当時の物理学者にとっては理解しがたく、また受け入れがたいものであった。 さらにファインマンが経路を合算するために導入したいわゆる 「経路積分」 と呼ばれる手法は、数学的には証明されてなかったし、時にあいまいでもあった。 また独自の理論に答えを引き出すために図を使う方法(今日ではファインマン・ダイアグラムと呼ばれている)は、生まれて初めて見るようなしろものだった。 彼らは証明を要求した。 その証明とは、考えを式で表すことから始めて、その式を数学的に導いてみせてくれというのだが、ファインマンの手法は、「直観」 と 「推論」 と 「試行錯誤」 から作り出されたものであって、証明はできなかった。 1948年に開かれた会議でこの手法を発表したファインマンは、ボーア(デンマーク1885〜1962)やディラック(英国1902〜1984)のような当時の物理学界の重鎮から容赦なく攻撃された。 だが結局。 彼らもファインマンという存在を無視できなかったのである。 これまでなら何ヶ月もかかった理論上の計算を、ファインマンは30分で解いてみせたりしたからである。 やがて登場した若き物理学者、フリーマン・ダイソン(米国1923〜)が、その一般性を示したことで、徐々にファインマンの手法が利用されるようになっていったのである。 ファインマンの 「経路積分」 という考え方は、エヴェレット(米国1930〜1982)が1957年に提唱した 「平行宇宙」 の考え方と表裏の関係にある。 ファインマンの経路積分は別名 「歴史総和法」 とも呼ばれている。
正法眼蔵
 時間が 「過去→現在→未来」 と連続して流れるという線形時間を廃棄することには応分の意識跳躍を必要とする。 以下はその意識跳躍を果たした宗教家の話である。
 曹洞宗を拓いた道元が著した 「正法眼蔵」 に 「而今(じこん)」 という言葉が登場する。 而今とは 「今この一瞬」 の意である。 道元は 「過去もなく、未来もない、ただ今があるのみ、今の刹那を生きるのだから、何をするにしても心を込めなさい」 と諭した。 さらに、「正法眼蔵」 の 「有時(うじ)」 の巻では独特の時間論を展開している。 「有時」 は 「有る」 という字に 「時」 と書く。 この 「有る」 は 「存在」 のことで、人間に焦点をあて、「有時」 と一語にしたのは、自分を抜きにして時は存在し得ないということを表現しようとしたからである。 その中で道元は 「時はひとりでに過ぎ去っていくものだと考えてはならない」 と述べている。 また 「一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ時は生み出されていくものである」 とも述べている。 かくして道元は 「この自分という存在と一体の時間を生きる今」 とはどうあるべきかを問いかけ、而今としての 「今この一瞬」 の時間としっかりと向き合って生きる時、その人にとっての時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていくものとなると結言した。 以上の 「而今」 や 「有時」 で述べられた 「道元の時間論」 は時間が 「過去→現在→未来」 と連続して流れるという線形時間を廃棄したときに現れる、時間が流れない 今の今 という 「現在だけの世界」 を述べているかのような感懐を覚える。
 大いなる錯覚からの覚醒には 「大いなる意識跳躍」 を必要とするが、その意識跳躍には 「相似性」 が伴っている。 それはファインマンにして、道元にして、またかく言う私にして、しかりである。 私が 「シンプルな宇宙」 で提示した 「過去や未来は現在に含まれている」 とする考え方は、ファインマンの経路積分が提示した 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っている」 とする考え方に相似し、道元が提示した 「時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていく」 とする考え方にそれぞれ相似する。 それらの相似性の中に大いなる錯覚からの覚醒をもたらす 「意識跳躍の何たるか」 が垣間見えている。

2024.02.06


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