Linear ベストエッセイセレクション
キリマンジャロの雪
Turn

甦る凍豹
 放然としてヘミングウェイの小説「キリマンジャロの雪」の中に登場する山頂にのこされた凍りついた一頭の豹の屍のことが脳裏に浮かんできた。 このイメージは過去幾度となく現れては消え、消えては現れてくる。
 キリマンジャロはタンザニア北東部に位置する標高5.895m、アフリカ大陸最高峰、山頂は雪におおわれ、西の頂はマサイ語で「神の家」と呼ばれている。凍豹はその西の頂近くに横たわっていた。そんな高いところまで、その豹が何を求めてきたのか? いまだ誰も説明したものはいない。
 ヘミングウェイが「キリマンジャロの雪」を書いたのは1936年、37歳のときである。1936年はスペイン内乱が勃発した年で、このあと彼は何度もスペインに出向いて志願兵となっている。第2次世界大戦の最中の41歳のとき、その体験をもとにして「誰がために鐘は鳴る」を書いている。
 小説の背景は本稿の主旨ではないので割愛し、ときに応じて私に巡り来る 「凍豹のイメージ」 に限って書き進める。 以下の出来事は私が中学生であった頃のことである。
 私は同級生が描いた1枚の絵の中にその凍豹のイメージを見たのである。 それは茫漠たる砂漠の果てまで幾重にも連なる砂丘のような構図であった。ただ砂漠と異なるのは連なる砂丘が青白い氷で覆われた三角の山の連なりであったことである。手前の山頂には小さな人影らしき黒いシルエットがあった。今想うと、それは人ではなく鹿のような動物であったかもしれない。描かれた世界はあまりに寂寥で孤絶した風景であった。他を寄せつけない孤高の魂がすでにして少年の心象風景に現れていることに私は少なからずも驚かされ畏敬の念にうたれた。
 その彼とは忘れ得ぬ体験を共有している。 とある日の放課後、廊下の窓にもたれて東の空に浮かんだ山容美しき山を眺めていたときのことであった。どちらからともなく 「あの山に登ろう」 と意気投合。企ての高揚感に押されて 「これから行こう」 となった。 今となれば、山頂までのルートも距離も考えずに昼過ぎ時に山に向かうなどあまりに無謀であったが、不思議とそのときはそんなことは微塵も思い浮かばなかった。 結局。夕闇せまる時刻に頂上に達したものの、下山で道を踏み間違え、さんざん迷走したあげく、遂には落差100mほどの急峻な崖の上に出てしまって進退は窮まってしまった。 しばらく崖の下を覗いていたが、降りられないことはないだろうと月明かりを頼りに下降を始めたものの滑落しないのが不思議なくらいであった。文字どうりの悪戦苦闘を続けて崖下の道に出たのは深夜 0 時を回っていた。安堵の思いと心地よい疲労感を背負ってぼんやりと山裾の村に向かって歩いていると下方から蛍のように群がった懐中電灯の光が押し寄せてきた。なんとそれはふたりに向けられた捜索隊の人々であった。そんなことになっているとはつゆ知らず脳天気に家路に向かっていたのである。そのあと受けた担任教師の諄々たる説諭と親父たちから落ちてきた雷の激しさにはほとほと胆が縮む思いであった。
 その後、長じて彼は京都の大学に進み、山岳部で活躍、挑んだヒマラヤの高峰に登頂を果たした。他方。私といえば「遥かな雪煙をめざして〜加藤保男 最後の講演」にわずかばかりの断片が残されている。
 畢竟如何。 つまるところ「凍豹のイメージ」の本質とは、食べるものとてない荒涼とした氷雪の高峰にその豹が 「何を求めて」 やってきたのかという謎である。種の保存本能からすれば理解不能な行動である。その生存本能を捨ててまで得たいものとはいったい何であったのか? おそらくそれは物質的なものではなく多分に精神的なものであろう。 だがそれなしには生きているかいもないものであろう。 そしてそれは今や多くの人間が失ってしまったものである。
 ヘミングウェイが「キリマンジャロの雪」を書いた1936年はスペイン風邪の危機的大流行から世界大恐慌を経て第2次世界大戦に至る20世紀初頭の混乱期の最中である。 当然にして人間存在の意味も問われていたであろう。 そして今、気づけば歴史は100年の周期を描いて当時の様相に回帰しようとしているかに観える。 人間存在が問われるとき凍豹もまた不死鳥のごとく再び甦るに違いない。

2020.06.05


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