この稿を起こすきっかけは「ささやかな僥倖」による。
ことは10数年もさかのぼろうか・・・私の研究所に勤務していたO君と話していた時、話が登山家、加藤保男のことに至った。何ゆえに加藤保男に至ったのか今では思い出せないが、O君が突如「僕はその人の講演を中学生の頃に聴いたことがあります」と言い出したのである。
聞いてみると、どうやらその講演は加藤が「最後のエベレスト」に赴く直前(1982年9月16日)のようである。その後同年、12月27日に厳冬期初のエベレスト単独登頂を果たし、下山途中に合流した小林利明隊員と共に酷寒の稜線でビバーク、行方不明となるまで3ヶ月余りしかない。彼のエベレスト登頂と遭難がいかなるものであったのかを知るにはあまりに貴重な講演である。私の驚きにO君はさらに「確かその講演録があったと思います」と付け加えた。ぜひとも探してみてくれと頼んだのは言うまでもない。
翌日O君は色あせたガリ版刷りの講演録を探して届けてくれた。講演からはすでに15年以上の歳月が経過しており、O君の整理整頓の良さには感謝して余りあった。読むにつれて、これは大変な資料であることがわかった。加藤は、生前たった1冊の本しかのこしていない。「雪煙をめざして(中央公論社)」がそれで、当時、私も読んだ。加藤と私は同年(1949年)の生まれで、私も20代には少々山をやっていたので、彼の活躍はいつも目にし耳にしていた。だが私にとって加藤は会ったこともない別世界の人であり、輝ける登山家であった。その彼の遺言のような資料が私の手元に届けられたことに不思議な縁を感じないわけにはいかなかった。
その縁に引き込まれた私は、かくなる講演録を整理し世に出してやることが使命のように思え、また彼が私にそれを託したようにも思えた。その縁の不思議さは、後に(2003年12月2日)同じ中学校の同じ演台で同じ中学生に向かって、今度は私自身が 講演(宇宙の構造とメカニズム)するに至ったことである。加藤が21年前に見た風景と同じ風景を見て講演することになろうとは想像だにしなかった。もっとも加藤の講演は彼が33歳の新進気鋭の頃であり、私のそれは54歳の少々老いぼれた頃であったことは大いに異なるところではあるのだが・・・。
ともあれ、その使命を達するのに10年以上の歳月を費やしてしまったのは、私の怠慢以外の何ものでもなく、彼にはもうしわけなく思う。だがようよう背負っていた肩の荷も下りて、ほっとした気分が今私を包んでいる。
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