Linear ベストエッセイセレクション
球形の荒野
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新たな地平はどこに
 科学哲学エッセイ「 Pairpole 」(1999年刊行)で私は現代社会は水平的地域として 「東京砂漠」 であり、垂直的歴史感情として 「傷だらけの人生」 であり、それらが覆う地球は 「球形の荒野」 であると書いた。 それは20世紀末のミレニアム(千年紀)のことであった。 それから20年の歳月が経過したことになる。
 「球形の荒野」 とは松本清張の長編推理小説(1962年刊行)の題名で映画化もされている。 それから数えれば57年の年月である。 地球は球形の荒野なのかを問うた松本清張の鋭敏な直観は今にして現実のものになろうとしている。 それは近代科学文明がもたらした自然環境破壊の現状であり、加速する経済のグローバル化がもたらした格差社会による精神の荒廃と対立の様相である。 我々は球形の荒野の片隅に生きるしかすべはないのか? 新たな地平はどこにあるのか?
危うきかな現代人
 情報化時代とは。 結局。 ここをさておき、あちらへと 「意識を拡散」 させ、何かを探そうとする時代であると総括される。 かくなる状況の変化は情報化時代が推進する 「情報メディア産業の隆盛」 であろうことは疑いがない。 それはテレビ報道、ウェブ発信、映画やドラマの配給、各種エンターテインメント等々の現状を鑑みれば難なく了解されよう。 問題はこのことによって我々のライフワークが 「自己をさておき」、他者をのみ偏重するものへと変化してしまったことにある。 かって縄文人が漆黒の森から瞬く星空を見あげながら 「自らの存在の意味」 を考え続けた 「自省の機会」 は今や痕跡もなく失われてしまった。 危うきかな現代人。 自らを失って、いったい 「何処へゆく」 というのか?
失われたおもしろき世界
 おもしろきこともなき世をおもしろく。 この世を生きる者にとって最大の能力は 「おもしろきことの発見(あるいは発明)」 ではなかろうか。 情報化社会の波に飲み込まれ、他者を見習うばかりで自ら考えなくなってしまった 「危うき現代人」 にとって、かくなる能力の再生は喫緊の課題である。
 おもしろき といっても、それは現代人が言うような 「おもしろさ」 ではない。 それは縄文人が言うような 「おもしろさ」 であって、そのような おもしろさ はコンピュータの中に構築された 「デジタル世界」 をいくら探しても見つからない。 縄文人がしたように満天の星空の中にある 「アナログ世界」 を探さなくてはならないのである。
 その 「おもしろさ」 はまた、かってあった 「おもしろさ」 であって、今や失われてしまった 「おもしろさ」 である。 かくなる 「縄文人のおもしろさの本質」 については、地元紙に寄稿した安曇野エッセイ 「失われた世界」 で、また 「現代人のおもしろさの本質」 については、知的冒険エッセイ 「科学的合理主義の終着点」 で描いている。 両稿をお読みいただければ幸いである。
現代社会は天国なのか地獄なのか
 「科学的合理主義の終着点」 の末尾に記載したオーストリア生まれの文芸評論家、エーリヒ・ヘラーの 「・・・ 技術的進歩とは、地獄をもっと快適な居住空間にしようとする絶望的な試み以外のほとんど何物でもありません ・・・」 という科学的合理主義の描像は危うき現代人の様相を簡潔にして直裁に表現している。 現代人が絶賛してやまない科学的進歩が実は地獄をさらに快適な居住空間にしようとする 「絶望的な努力」 であると痛烈に批判したのである。 だがその批判を 「その通り」 と受け入れる現代人はいまだ希少であろう。 なぜならそれは 「現代社会より縄文社会の方が優れている」 ことを認めることに他ならないからである。
 情報化が進み 「仮想的豊饒」 で囲まれた現代社会を天国と考えるのか、それとも身のまわりに広がる 「実存的豊饒」 で囲まれた縄文社会を天国と考えるかは人それぞれで自由である。 だがその行き着く先は慎重に熟慮を重ね検討されてしかるべきである。
天国の風景
 直面する現代社会は天国なのか? それとも地獄なのか?
 現代社会が物質的豊饒に満たされていることからすれば天国のようにみえるが、その生活が精神的飢餓に満たされていることからすれば地獄のようにもみえる。 他方。 縄文社会が物質的豊饒であったかどうかはともかく、その生活が精神的豊饒に満たされていたであろうことを想像すれば天国のようにもみえる。 その精神的豊饒の風景をベストエッセイセレクション 「縄文アバンギャルド」 の末尾では以下のように描いている。
 国宝の縄文土偶である 「縄文のビーナスが出土した棚畑遺跡」 と 「仮面の女神が出土した中ッ原遺跡」 を訪れた日はうち続く猛暑日のさなかであった。 頭上の陽光は容赦なく照り続け額からは止めどなく汗が流れ落ちた。 遺跡には訪れる人影もなく蝉の声だけが静寂の空間にこだましている。 畢竟如何。 そのとき縄文の時空はめくるめく甦るのだ。 人工物は視界から去り、やがて原始の森が姿を現す。 列島にあった 1万2000年 に渡る悠久な時間の歯車がおもむろに回り始め、もろびとが囲む広場の中央では魅惑の ビーナス と 女神 が妖しく踊り出す。 漆黒の闇の中でかがり火は燃えさかり、豊饒に捧げる 祭り はいつ果てることもなく続いていく ・・ アバンギャルド というのであれば縄文人ぐらい アバンギャルド な人々は他にそう多くはないであろう。 かくこのようにその自立した文化様式を変えることなく 1万2000年 に渡って守り続け得た 「強靱な人間力」 は奇蹟に値する。 それに引き換え、その後を引き継いだ管理社会が始まった弥生時代からいまだ 2200年 ほどしか経過していないのに様相は 「このありさま」 である。
 ゆく道は。 物質的豊饒か精神的豊饒か? デジタル的生活かアナログ的生活か? 成長か安定か? ・・ 人類は今、渺茫(びょうぼう)たる 「球形の荒野」 を前にして立ち尽くしている。

2019.02.02


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