現象学を創始した哲学者フッサールは我々が眺める世界を「意識の地平」と表現した。我々は良くも悪くも自己意識によって編集された風景を見ているのである。
かって古代人が眺めた世界とは山には神仙が、森には精霊が住むという情意で編集された「霊魂の風景」であった。だが現代人が眺める世界とは標高2000mの山と面積10Kuの森という数値で編集された「化石の風景」である。
科学で最も基本とされる波動方程式を考え出した物理学者シュレジンガーは「精神と物質」という著書の中で「人間が意識するものは変化であり、繰り返しなされる事象は無意識下に埋没する」と語っている。
繰り返される心臓の鼓動や肺の呼吸は無意識下に去り、何らかの変調が顕れた場合にのみ意識化する。
この意識メカニズムは生物が環境に適応するために必要な機能なのであるが、同時に我々が眺める世界を意識に顕れた変化する風景だけに拘束し、繰り返されて無意識下に去る多くの風景を時空の彼方に埋没させてしまう。
この埋没した風景とは言うなれば過去幾度も繰り返され「あたりまえ」となった風景であり、このあたりまえの風景の中に実はかっては眺められたさまざまな世界が隠されている。ニュートンは林檎が木から落ちるというこの「あたりまえの風景」の中からあらゆる物体の位置を規定する「万有引力の世界」を発見したのである。
今、多くの現代人は新たな変化と刺激をのみ求め東奔西走するに忙しい。その中からも新たな世界が見えてくるには違いない。だがそれをはるかに凌駕する多くの世界がこのあたりまえの意識の中に内包されているのである。
「科学する意識」は意識の地平に24時間営業のコンビニを出現させ我々から静寂な夜を消滅させ、テレビを出現させ家庭から楽しきだんらんを消滅させ、コンピュータゲームを出現させ子供から夢多き昔話を消滅させてしまった。
そして「繰り返される意識」は意識の地平からトムソーヤの汚れなき悪戯の風景を消滅させ、菜の花畑とおぼろ月夜に霞む美しき牧歌的な風景を消滅させてしまった。
今やそれは「失われた世界」なのである。
粗末な庵に住み村の子供たちと毬つきをして遊んだ良寛は路傍に咲く「はこべの花」にも感動したという。現代人はそんな路傍の花などには目もくれず急ぎ足で通り過ぎて行く。
そんな良寛が慈しんだ貞心尼へ遺した辞世の句
「かたみとて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」
自然の万物事象をかたみとして遺し得た良寛、わずかな土地と貯金しか遺せない我々。こころの風景の豊かさの乖離いかばかりか・・もって瞑すべきである。 |
|