「直観的場面構築」とは顕在意識や潜在意識で構成された広漠茫洋たる認識の大海にある玉石混淆、種々雑多な認識断片が、ある瞬間に連鎖反応を起こして意識のスクリーンに投影する直観的場面のことです。私の命名によりますが、要は「連想ゲーム」を思い浮かべてもらえばいいでしょう。ばらばらに意味なく存在していた言葉が、ある瞬間にまとまりをもって「何事か」を語りだすゲームです。私は機械メカニズムの開発技術者ですが、この直観的場面構築を使って多くの開発を手がけました。
メカニズムを言葉で表現すれば以下のようになります。
“ メカニズムとは要素で連鎖された構造が、ある目的達成に向けて行う連鎖反応である ”
メカニズムの構成には「要素で連鎖された構造」とその「連鎖反応」の2つが必要不可欠です。直感的場面構築にもメカニズムに不可欠な2つの構成要件が備わっています。「要素で連鎖された構造」とはさまざまな認識断片という要素で連鎖した意識構造であり、「連鎖反応」とは直観の意識作用です。直観的場面構築とは「意識のメカニズム」であり、それは歯車やチェーンやボルトやナット等々のさまざまな要素で構成される「機械メカニズム」と何ら変わりません。
この意識メカニズムを作動させるためには要素である多くの認識断片を意識の大海に「蓄える」ことと、その蓄えられた多くの認識断片を連鎖反応させる「きっかけ」の2つが必要です。前者のためには多くのことを「見聞き」、「読み」、「感じる」ことが必要であり、後者のためには熟成の時を気長に「待つ」ことが必要です。そうすればいつの日か意識のスクリーンに課題解決のための「直観的場面」が投影されるのです。私の経験で言えば、長年考え続けても解決できずに「もはや忘れてしまっていた課題」が、ある日のこと運転していた車がトンネルをぬけた瞬間に最終解までの道筋が意識のスクリーンに投影されたことがありました。そのときはそのアイデアを検証しなくてもなぜか「完全に正しい」ことが瞬時にわかりました。
直感的場面構築の意識メカニズム手法は多分に文学的です。なぜなら意識は言葉を介して認識できる形に表現されるからです。根源的な意識は混沌としたディオニュソスであり、この根源意識を認識できる形に表現する変換技術が言葉による「言語認識システム」です。言語認識システムは目鼻も姿も形も定かでない混沌としたディオニュソスとしての根源意識を言葉という形に置き換えます。稚拙な文学とは、この根源意識の言葉への変換技術が稚拙であることであり、練達な文学とはこの変換技術が当意即妙であることです。短歌や俳句などはこの言語認識システムが集約洗練されたものであり、短い言葉の連鎖と反応で宇宙のディオニュソスを表現する直観的場面構築です。この意味では工学の開発と文学の創作は何ら異なるところはありません。優秀な工学とはまた多く優秀な文学であり、優秀な文学とはまた多く優秀な工学なのです。
また投影される場面が「ある映像場面」であるいじょう、この意識メカニズムにはビジュアル的イメージが深く関わっています。蓄積され醸成された認識断片の連鎖反応は「言語認識システム」で創作された物語が「映像的イメージ」に変換されることで誘起されます。その「きっかけ」が「ふと出逢った並木道の風景」であったりするのはそのためです。
ただし、この直観的場面構築という意識メカニズムで現れた場面は瞬間の場面であり、現れるやいなや再び混沌とした根源意識のディオニュソスの大海に消えてしまいます。この場面を定着させるためには並外れた表現力が必要となります。例えて言えば、言葉をもって定着させるに「文豪ゲーテの記述力」が、形をもって定着させるに「巨匠ピカソの描写力」が、音をもって定着させるに「天才バッハの音楽力」が必要とされるのです。 |